作品の閲覧

「800字文学館」

ロシアに渡った日本人(3)(岡田嘉子)

都甲 昌利

 岡田嘉子といっても今の若い人たちは知らないだろう。昭和一桁生まれの人なら知っている。今なら吉永小百合というところか。昭和の初期から中期にかけ活躍した映画・舞台の大女優である。
 明治35年広島に生まれ父は新聞記者で各地を転々とする。父が芸術座の島村抱月らと知り合いだったことから芸術座に入団、頭角を現し舞台女優・映画女優として華々しい活躍をする。出演映画は小津安二郎の『また逢う日まで』『東京の女』など数十本に及ぶ。
 しかし、日本の映画界に飽きたらず次第に当時流行のソ連のスタニスラフスキーの演劇理論に憧れて本場のロシアに渡りたい欲望に駆られる。ロシア式演劇理論を持つ演出家の杉本良吉も同じ思いだった。

 治安維持法成立、軍国主義台頭で表現の自由が奪われる中、二人は無謀なソ連への亡命を決意する。
 昭和12年12月、北海道を経て樺太へ渡り厳寒の吹雪の中、樺太国境を越えソ連領に入る。日本では連日のように駆け落ち事件として報じられ日本中を驚かした。やっと念願が叶ったと思ったが、現実は厳しく不法入国で逮捕される。嘉子は杉本と切り離され独房に入れられKGBの取り調べを受けた。ソ連当局は日本を潜在的脅威と見て、思想信条にかかわらずスパイと決めつけた。脅迫と拷問で嘉子はスパイ目的で越境したことを認めた。恋人の杉本をも裏切った。
 二人に対する裁判がモスクワで行われ、岡田は起訴事実を認め、自由剥奪10年が言い渡された。杉本は容疑を否認、無罪を主張したが銃殺刑の判決を受けた。岡田は収容所で当局に再審の嘆願書を書いたが無視された。

 日本ではこの事件はやがて忘れ去られたが、昭和27年参議院議員の高良とみが訪ソした時、嘉子の生存が明らかになりにわかに関心が集まった。美濃部都知事らの尽力で帰国、『男はつらいよ』など映画に出演したが、日本の水に合わなかったのか再びソ連に戻る。平成4年モスクワの病院で波乱に満ちた89年の生涯を閉じた。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧