クラブはこうして生まれた
それは一本の電話から始まった。
今から二十五年前、1989年夏のことである。
電話を掛けたのは、三井物産OBの矢野。相手は現役時代に付き合いのあった三菱商事OBで、参議院議員を辞めたばかりの八木であった。電話の内容は、商社に勤めていた連中を誘って、物書きの集団を作ってはと持ちかけるものである。
相談を受けた八木は、商事の同僚であった木村に声をかけ、三人で協議を重ねた。初めの構想は、「商社マン・ペンクラブ」であったが、商社のOBに呼びかけても、なかなか人が集まらない。そこで、出身を商社に限定せず範囲を広げ、「企業OB作家連盟」にすることにした。
その旗揚げの第一回目の集まりが行われたのが、同年11月22日である。商社を始めとする企業のOBら総勢15名が集まった。会の名称が今日の「企業OBペンクラブ」になったのは、翌年3月の月例会の時であるが、我がペンクラブの誕生日は、この旗揚げの日、1989年11月22日といってよいだろう。今年は、二十五周年記念の年にあたる。
当初の会の目的は、自分たちの経験を生かし、書き物によって日本国内で「国際感覚の啓蒙」を行うことであった。
しかし、掛け声ばかりでなかなか原稿が集まらない。集まったとしても、素人の文章を取り上げてくれる出版社や雑誌社が見つからず苦労した。幸いにも、いくつかあった出版プロジェクトのなかで、『無邪気な日本人』を、マネジメント社が引き受けてくれることになった。最初に取り上げてくれた同社の家辺社長には、当クラブとして大いに感謝しなければならない。
この本は、1991年2月に『知らぬは日本人ばかりなり』と名前を変え、栄光ある第一号の出版物となり、盛大な出版記念パーティーが開かれた。
この本の内容や書き手がユニークであったことで、朝日、毎日、読売を初めとする大手新聞各社が、当クラブのことを記事にし、NHKもテレビで報じてくれた。こうして、企業OBペンクラブは知る人ぞ知る存在となったのである。
1994年発行の当クラブの同人誌、『悠遊』創刊号に掲載された、前会長北田氏の『私の企業OBペンクラブ五年史』を参考としました。