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「800字文学館」

父の背中(下)

新田 由紀子

 1本だけついた蛍光灯が揺れている。応接ソファと事務机を並べた材木屋の店の中。父が机に向かっている。表の十三間道路を走る長距離トラックがガラス戸をふるわす。茶の間のテレビからは笑声が流れている。半世紀も前の懐かしい情景。
 夕食後に父が店に座るのは、その日の帳簿に目を通すためだけではない。たいてい硯と墨を取り出しては習字に没頭している。四折りにした新聞紙に何度も重ねて書く。半紙に清書もせず、何を手本にしていたのか。店に続く廊下には黒々と墨で湿った新聞が積まれていた。「ゆらりゆらりと 寄せては返す 波の背にのる 秋の月」。晩酌に酔って手枕で民謡を唄い出すと、テレビが聞こえない。子供たちに文句をつけられて、「テレビなど、実にくだらん」と、店に籠って机に向かう。
 家のオルガンを楽譜もないのに両手で器用に弾いた。休日や正月の歌かるたも父の独壇場だった。上の句を高らかに読みあげると、下の句は一転面白おかしく読み変える。一体どこでオルガンなど覚え、百人一首をそらんじるまでになったのか。北関東の片田舎で11人兄弟姉妹の間に育ち、木場の材木問屋の見習から身を立てる間に、そんな娯しみにふれる時があったのだろうか。箸の上げ下ろしや玄関での履物の揃え方と行儀にもうるさい。子供たちには自ら算盤を教え、稽古事に通わせ、本を買うようにと小遣いをやった。
 父らしい遺品がある。カレンダーやチラシの裏に短歌や俳句を書き散らして紐で綴じたものだ。おりにふれどこかで目にしたものを書き写したのだろう。その中に作者不詳の歌がある。
 あこがれて 叶わぬ志(おもい)遠くありき ひばりよ見ゆるか 学都東京
 娘が大学に入る時まぶしそうな顔をして言った。「存分に真理の探究ができるな」。そろそろ父の没年に近い。今ならば、向かい合っていろいろなことを聞いてみたい。何に生涯憧れていたのか。夢に出る父はいつも背中を見せて去っていくばかりだ。

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