洋画家浅井忠と夏目漱石
この夏、佐倉市立美術館で、「佐倉学―浅井忠展」を観た。
堀田氏の城下町として発達した佐倉は、進取の精神に富み、蘭学者で順天堂の創始者佐藤泰然や日本を代表する洋画家浅井忠など独特の業績を残した先覚者を輩出している。
佐倉藩士の家に生まれた浅井は、初め日本画を学んだが、後、工部美術学校でフォンタネ―ジから洋画を学び、東京美術学校教授を経て、フランスに留学、多くの水彩画、油彩画を制作した。帰国後は京都に住み、津田青楓、安井曽太郎、梅原龍三郎らを育てた。
田んぼで脱穀をする夫婦と子どもを描いた「収穫」、夕方刈り取った稲を背負って家路につく農夫一家の「農夫帰路」など。全体が黄褐色の色調で、110余年前の農村風景と農民の姿が描かれている。日清戦争を描いた作品も多い。ペンで輪郭線を描き水彩で着色した行軍、野営、破壊された城壁、司令部前の将官たちなど。パリ郊外の風景やベニスの運河など水彩画も。晩年は吉野や飛騨に遊び水彩画を残している。
京都時代は、黙語と号し、工芸品の図案を多数手がけ、硯箱や茶碗など漆工芸品として生かされている。
浅井は留学中に漱石と知り合った。漱石は浅井を高く評価し、作品に登場させている。
『それから』で、主人公が父親から実家に呼び出され、縁談を断る緊張した場面で、座敷にあった刳りぬき盆の中の湯呑を見つけ、「京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあった」と書く。
『三四郎』では、野々宮さん友人の画家が、ある展覧会で浅井の遺作画を前に「深見さんの水彩は普通の水彩の積で見ちゃ不可ませんよ。何処迄も深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になってゐると、中々面白い…」と言わせている。「深見さん」は浅井忠を指すとされる。
明治41年、画伯の死去を聞いた漱石は、ロンドン時代の友人渡辺和太郎あて「浅井画伯は惜しき事致候。小生いつか同君の水彩をci間(びかん)に掛度存候ひしにまだ頼みもせぬうちに故人となられ候…」と書き、その死を悼んでいる。
参考 漱石全集第7、第8,第15巻(岩波書店) (14・11・27)