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「800字文学館」

ロシアに渡った日本人(4)(都甲昌利)

都甲 昌利

「都甲昌利って誰だ?」
「知らない」
「彼がロシアに渡たって本当か?」。
だが彼がロシアへ渡ったことは事実だ。

 彼は東京外国語大学露語部を1960年に卒業し日本航空に入社した。その頃シベリアの上空を飛んでモスクワへの直行便を開設しようという機運が高まった。開設できればこれまでの北回りに比べ約3時間短縮になる。ソ連はシベリアにミサイルの基地があるという理由で上空を外国機が飛ぶことを許可しなかった。国家権益に属する航空路開設の日ソ両国の困難な交渉が始まった。ようやく1967年航空協定が調印され日航とアエロフロートの共同運航で運航することが決まった。
 モスクワ支店の開設が急がれた。ロシア語の出来る彼を含む5人が集められた。共産圏で初めての支店で不安だった。人事担当重役は「全員で当たって砕けろ」と訓示をした。まるで出征兵士だ。

 1967年3月北回りでモスクワに着任した。東京は春の気候だがモスクワは一面の雪世界。空港から市内へのバスの中で「これはエライところに来たぞ」と思った。彼はロシア語を習得したとは言えペラペラとは言えない。まず事務所を決め住宅を確保しなくてはならない。
 この杞憂はある程度薄らいだ。彼らの身分はソ連外務省外人サービス局の管轄下に置かれた。事務所はここだ、ここに住めと指示しするからである。
 ブレジネフ独裁官僚国家で自由な契約ができない。楽と言えば楽だが選択の自由がない。ロシア人スタッフを雇うにも自由に雇えない。サービス局から派遣されてくるのは太め女性ばかりだ。車だけは外国で購入し輸入することができた。彼はヘルシンキまで買いに行き約1200キロの悪路を走ってきた。
「住めば都」という。4年間も住むと余裕ができ、素晴らしいロシア芸術を堪能した。
 1971年帰国した。日本での最初の夏は堪えた。彼の毛穴は極寒で縮んでしまった。彼は口を開けて犬のようにハァーハァー言いながら過ごした。

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