怖い俳句談議
ペン俳句会の忘年会で、父と俳句、について熱弁をふるってしまった。酒の席とはいえ、迷惑であったろうと反省している。
子供の頃、時代としてなのか土地柄なのか、村のおじさんたちの多くは俳句をたしなんだ。鎮守さまの祭礼では奉納句会が催され、抜かれた秀句は、神主の手で細長い桐板に認められ、翌年までの一年間、拝殿に掲げられた。
自宅での慶弔の席でも俳句が詠まれた。
「今晩は、お新盆でお淋しいこんでごいす」
昭和36年、婆様のお新盆の席、この素晴らしい挨拶で門を潜る訪問客の手で俳句が半紙に認められ、鴨居に張り出されていった。
時代が下って、昭和44年、村のしきたりそのままに行われた兄の結婚式でも、披露宴の席で、鴨居に半紙が並んだ。その中の一句。
今年より我が田となりぬ鋤始め
当時二十歳のうぶな若者も「む…」と思った。
この頃からしばらく、父への手紙に俳句を添えた。
帰省した折など、晩酌中の父に恐る恐る俳句談議をしかけ、送った俳句についてのお伺いをたてた。芸事の家の親子相伝は厳しいものだそうであるが、父も真剣を振るってきた。俳句は「月並み」「若えくせに生活句」等一刀両断、ことごとく討ち死に。議論になると「万巻の古典を読んでいる」と自称するだけあって、全く歯が立たない。
「ほんなこんも知らんだか」、「つまらん本ばっか読んでて、古典を読まんから駄目だ」と罵倒の嵐。
そうは言われてもこちらは工学部、『奥の細道』の解釈の甘さを責められ、『万葉集』の深掘りをされ、「三鏡は読んだか」と言われても困る。彼の言うつまらん本も読まなければ友達とも付き合えず、卒業もできない。古典の原典に浸ってばかりもいられない。結局弟子入りは諦めてしまった。
昭和46年正月、ひ孫を得た爺様が、半紙に一句認めお歳神様に張り出した。
元日や無心に首振るひ孫抱く 長岩
爺様が長岩と号する事をこの時初めて知った。この句に父がどう反応したか残念ながら覚えていない。