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「800字文学館」

日本にやって来たロシア人(1)(セルゲイ・エリセーエフ)

都甲 昌利

 明治も終わりの頃、夏目漱石主催の文学サロン木曜会に出入りしていた風変わりなロシア人がいた。漱石の当時詠んだ句にも「五月雨やももだち高く来る人」がある。その人物がセルゲイ・エリセーエフである。

 彼は1889年、ペテルブルグの裕福な商家に生まれ、子供の頃、パリ万博の日本館を観て日本への興味を持った。その後、ドイツ留学中に、同じくドイツにいた言語学者・新村出の援助で1908年来日した。外国人で初めて東京帝国大学正規学生になった。東京大学の願書に名前を「英利世夫」としたと言われるほど日本人になりきっていた。日本史を隅から隅まで学び、古事記から漱石まで日本文学の深遠な知識を得た。成績はトップクラスだった。卒業式に明治天皇が「この方は?」と上田萬年学部長に尋ねたという。

 彼が普通の留学生と違うのは、先祖が興したロシア財閥「エリセーエフ商会」の御曹司だったことで、豊富な留学資金を基に、日本での生活は、しもた屋に2,3人のお手伝いさんを雇い、寄席に通って流麗な江戸弁を勉強した。久保田万太郎、谷崎潤一郎、永井荷風らが出入りするサロンにも足を運んで「日本」を研究した。漱石山房では芥川龍之介、小宮豊隆らと交わった。

 帰国後、ペテログラード大学で日本語の講師となったが、ロシア革命が起こり、「エリセーエフ商会」は没収、フランスに亡命、1932年にはアメリカに渡り、ハーバード大学で東洋言語学研究所を開設し日本語、日本文学、日本史を教え門下生には駐日大使を勤めたライシャワーや日本文学者のドナルド・キーンがいる。なんと華麗な人脈か。

 太平洋戦争が勃発すると、アメリカ軍に京都と神田の古本屋街に対する爆撃をしないように進言したと言われる。一方、日本軍国主義への強い反発、戦争を早く終わらせるべく、米軍将校への対日戦線の戦略作成、実施にも深く関わった。 こんなロシア人は彼の他にはいないだろう。

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