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「800字文学館」

季節を食らう

浜田 道雄

 大寒がすぎて二、三日したある日、近くの農協の直売所に春の菜が並んでいた。
「そうか、もう春が近いんだな」
 思いがけず見つけた春の匂いに心がはずみ、菜の花とウドとを求めて家に帰った。菜の花は湯掻こう。ウドは半分を酢で和え、残りはキンピラにする。あわせる酒は、もちろん熱燗だ。
 いそいそと台所に立ち、酒と料理の支度をはじめる。そして出来上がった料理をテーブルに並べる。部屋は春がきたように華やぐ。

 湯掻いた菜の花は鮮やかな緑を装い、やがてくる春の野の新芽を思わせ、口に入れるとわずかな苦味が舌に快い。
 熱燗を一口、グーッと飲み込み、ウドの酢和えを頬張る。サクッとウドが噛み砕かれる音。酢の爽やかな香りとともに渋みが口に広がり、春の土の匂いが身体じゅうを駆け巡る。酒が腹に染みわたり、至福の刻がはじまる。
 今度はキンピラだ。軽く炒めたウドは甘みが増して、オリーブオイルの青い香りにのって食をそそる。そして、酒もますます進む。
 ベランダの向こうに広がる相模灘はまだ冬景色だが、春の風に乗って潮の香りを運んでくるのもそう遠くない。

 今日、スーパーマーケットに行けば、トマト、キュウリ、ナスなどほとんどの野菜が季節に関わりなく手に入る。温室栽培技術の進歩や、流通ネットが広がって日本各地、さらには世界各国から仕入れるようになったからだが、おかげで、私たちの舌の季節感はまったく狂ってしまっている。
 しかし、ここでは農協に行けば、生産者の名入りの、春には春の、秋には秋の実りが手に入る。「季節を食らう」特権は、いまでは都会から離れて僻地に引き篭もった者だけが手にできるささやかな楽しみなのだ。身近にある自然の豊かさに気づき、自然と共にある幸福感に包まれるときである。

 数日後、農協で再びウドを見つけた。柳の下の二匹目のドジョウを狙って、またウド料理に挑戦したが、先日のような「春を待つ」楽しさはなかった。季節の味は初ものに限るようだ。

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