作品の閲覧

「800字文学館」

遥かな空知川

首藤 静夫

 系列会社の立て直しのため、札幌に着任したのは5月、遅い春が訪れていた。一段落してこの会社発祥の赤平(あかびら)市を訪れた。札幌から車で北に向かって2時間ほどの、かつて石炭産業で栄えた町である。
 滝川で高速道を降りると大きな川が見えてきた。助手席で周囲の景色を眺めるうちに川の標識が目に飛び込んできた。
 空知川――国木田独歩ゆかりのあの川だ。
 若き日、独歩は大自然の息吹きを求めて単身ここにやってきた。彼は書いている、
―男子志を立て理想を追ふて、今や森林の中に自由の天地を求め……。
―未だ曾て、原始の大森林を忍びやかに過ぎゆく時雨ほど淋しさを感じたことはない。これ実に自然の幽寂なる私語である……。

 橋をわたって上流に走らせ、川が大きく曲がる地点にめざす工場があった。従業員50人ほどがユニットバスの製造に携わっていた。ユニットバスの先駆的企業として名を馳せた会社であったが、退勢は覆いがたかった。
 札幌と赤平の間を何度往復しただろう。訪れるたびに空知川はそれぞれの風情を見せた。独歩の「原始の大森林」に代わって、雑木やカワヤナギが川に沿って点在していた。

 運命のXデーは翌年早々にやってきた。会社の自力再生はならず、同業者に事業を譲渡することになった。だが生産性の低い二つの工場はいずれも不要とされた。工場閉鎖を告げなければならない。
 その日、札幌を出たときは小雪が舞っていた。赤平市役所で市長他幹部に説明とお詫びをした。市長からは予想に反して穏やかな言葉が戻ってきた。きつく言われた方が気が楽だった。
 工場で全員に集まってもらい、みんなの前でお詫びとともに解雇を告げた。沈黙が支配した。怒号も騒擾も何も起きなかった。彼らの心の奥の悲しみを感じた。
 工場を出、空知川にかかる橋を渡りなおす時に雪は本降りになっていた。二度と来るなといわんばかりに降っていた。
 もう一つの工場にも同様に従業員を集めている。気が重かった。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧