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「800字文学館」

鼓の音

斉藤 征雄

「鼓を打って見たくってね。何故だか鼓の音を聞いてゐると、全く二十世紀の気がしなくなるから可い。どうして今の世にあゝ間が抜けてゐられるだらうと思ふと、それ丈で大変な薬になる」
 これは最近、漱石の『三四郎』の中に見つけた一節である。広田先生の友人の原口さんという画描きがいう言葉で、そのあとに、今の東京に住んでいる者に鼓の音のようなおおらかな画は描けないと続く。

 私が住んでいる近所に、竹垣に囲まれた古家があった。その家の内から、時たま鼓の音が聞こえてきた。その音は、漱石流に言えばまさに二十一世紀とは思えぬ風情があった。鼓の主を見たことはないが、凛として和服を着こなした老婦人が端然と正座して鼓を打つ姿を、私は勝手に想像していた。
 しかし三年ほど前から鼓の音は聞こえなくなった。やがてその家も取り壊されてコンクリートの建物が建てられた。時間とともにその古家の記憶はうすれてきているが、漱石の文章はかつて聞こえた鼓の音を甦らせてくれた。

 能の囃子では、ここでいう鼓を小鼓という。大鼓のカーンという響きと小鼓のポンポンという音の調和が、能を支配する特有の雰囲気を醸し出す。初めて能を観たときこの大小の鼓の音に魅了された、という人は多い。
 特に小鼓の音は、微妙でしかも単純ではない。音の高さはなんとなく中途半端でしまりがないのに、それでいて耳に不快感をあたえない。打たずに触るだけのかすかな音も効果的である。打つときは、左手で握った調緒を締めつけなければならないので難しい。友人の鼓を借りて打たせてもらったことがあるが殆んどまともに音が出なかった。革は馬革だが、乾燥しすぎると良い音が出ないので裏革に唾液で濡らした紙片を張り付けて調節したりする。小鼓は実に日本的な独創から生まれたこまやかな楽器である。

 漱石は鼓の音を、間が抜けているという表現の中で、現代人が忘れがちな時間を超越した何か、を感じさせると言いたかったのだろうと思う。

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