ある初年兵の二・二六
真夜中に非常呼集、文字通り叩き起こされた。
「なんでぇ、なんでぇ、こちとら寝たばっかしだぜぇ」
三日前の雪が白々と残る営庭に集合するとすぐ弾薬庫からの弾薬搬出を命じられた。命令しているのは歩兵中隊の大尉殿二人で、機関銃中隊は軍曹殿が最先任だ。「初年兵は甲弾薬箱」と指示された機関銃の弾薬箱を背負う。薄暗い電灯で箱の字を見ると実弾だ。
「中隊長殿も中尉殿もいねえぞ」
「こりゃ、演習じゃねえな」
「偉い人の警備だとよ」と帝大出初年兵の畑が言う。
軍曹殿の指揮で、機関銃中隊は分隊に分けられ、個々に歩兵中隊に配置された。歯の根も合わない寒さの中でようやく「前へ」の号令がかかる。
まだ外出も許されない初年兵の身だが江戸っ子だ、真っ暗な中、第一連隊に向かっている位のことは判る。塀沿いに回り込んで裏門から入る。檜坂下の池の脇に俺達第三連隊と、見たこともない第一連隊の兵隊と併せて二個大隊分もあろうかという隊列ができた。
隊列が動き、次々と檜坂に消えていく。俺たちは最後尾になった。古参兵四人で担いだ機関銃に初年兵が弾薬箱を背負って従う。道端には雪が残る中、急な坂道の連続で、行軍だけで命懸けだ。左手に氷川神社の鳥居。『南部坂雪の別れ』か。
虎ノ門を回り込み、海軍省あたりで縦隊を解いて散開の命令が出た。数丁の機関銃が警視庁に向けられて布陣するや、歩兵が建物に突入していった。「えらいことになった」
白々明け、細かい雪が舞い始めた。陣地変換命令で正面玄関脇に今度は銃口を外に向けて布陣した。他の機関銃は中庭や屋上のようだ。何が何だかわからないが、俺たちは警察の本丸、警視庁を占領したらしい。乾麺麭と氷砂糖を食う許可が出た。銃口の先で雪は本降りになっていく。
それから二日。「俺たちは反乱軍らしい」という噂が流れ、飯も出なくなった。腹ペコの中で「小林二等兵、一席演れ」の命令。『子ほめ』で擽ったが、皆、目を据えて睨み返してくるだけだった。
注)これは、二・二六事件当時の、後の人間国宝五代目柳家小さん(本名小林盛夫、当時前座の柳家栗之助)のエピソードに、事件の動きの記録を重ねたフィクションです。文中,畑とは後の埼玉県知事畑和のことです。