高村山荘と智恵子抄
高村光太郎の詩集、智恵子抄の中の「あどけない話」という詩を読んで、高村山荘を思い出した。
訪れた時、智恵子が焦がれた『阿多々羅山の上に毎日出ている青い空』が頭の上に広がっていた。
光太郎の詩では『本当の空が見たい』という智恵子の言葉に驚いて上を見ると『桜若葉の間にあるのは、切っても切れない昔なじみのきれいな空だ。どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ』と続く。
冷静な目で暖かくあるがままの自然を詠んだ詩だ。
その彼が、長年精神を病んでいる智恵子を見舞った後、今にも死ぬのではないかと思いつめ、友人の草野心平に「ね、君、僕はどうすればいいの、智恵子が死んだらどうすればいいの?僕は生きられない。智恵子が死んだら僕はとてもいきてゆけない。僕の仕事だって、智恵子が死んだら、だれひとりみてくれるものがないじゃないの」と取り乱す。
戦争中、光太郎は、東京から岩手県の宮沢賢治の実家に疎開して戦禍に遭い、もっと奥の花巻に粗末な小屋を建てて移り住んだ。それが現在も残っている高村山荘である。
硝子戸や雨戸はなく、障子だけが外気との隔てである。ご不浄の壁には、三日月と、光という字が、小さく美しく彫刻刀でくり抜かれていて、電気の通っていない山荘にあって、そこから漏れる僅かなあかりで、用を足していたと説明書きにあった。
彼はここで七年間独居し、自炊生活を送った。
冬になれば深い雪に閉ざされる過酷な環境の中に身を置きながら、彼はいつも智恵子と共にいた。この地で書いた「元素智恵子」にある通り、今は亡き智恵子は元素にかえって彼の中にいたのだ。
戦争中に戦意高揚のための戦争協力の詩を作った事への深い自省の念に対しても『智恵子はこよなき審判者であり、うちに智恵子が眠るとき私は過ち、耳に智恵子の声を聞くとき私は正しい』と詩う。
この過酷な生活こそが、傷心の光太郎にとって、智恵子を元素に変えて共に生きるすべだったのだろうか。