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「800字文学館」

日本にやってきたロシア人(2)(レオ・シロタ)

都甲 昌利

 レオ・シロタは1885年ウクライナ生まれのロシア人。5歳でピアノを始め9歳で既に演奏活動をした天才的なピアニストである。1904年、ペテルブルグ音楽院に学び、更にウィーンに留学してブゾーニに師事、ウィーンでモーツアルトによる2台のためのソナタ(ブゾーニと共演)の演奏を皮切りに、ブゾーニのピアノ協奏曲やリストのドン・ジョヴァンニ幻想曲などを演奏しデビューを飾った。このことによりピアニストとして確固たる地位を築き、リストの再来と言われた。

 1929年、日本の山田耕筰に乞われ家族を連れて来日し、演奏旅行は数ヶ月の予定だったが、15年間も日本に留まってしまった。演奏家としては勿論、教育者としても活躍した。東京音楽学校(現東京芸大)で教鞭を執り、シロタに直接学んだ弟子に園田高弘、藤田晴子、豊増昇など爽そうたるピアニストがいる。またスタインウエイやベヒシュタインなどピアノの流行に対して、ヤマハのピアノを推薦、擁護した。彼は本当に日本を愛していたのだ。

 シロタの一家に不幸が襲う。戦時色が濃くなると外国人のスパイ活動を監視するため一箇所に集められる。一家は軽井沢の別荘に収容された。日本人との接触は禁止されピアノを没収されレッスンは禁じられた。
 彼にベアテという娘がいた。16歳まで両親と一緒に日本に暮らしたが、太平洋戦争が勃発する前に亡命のような形でアメリカに留学する。日本と敵国アメリカに分かれて暮らす一家、このことが一層シロタ夫妻を苦しめる。

 1945年日本の敗戦。ドラマティックな事が起こる。娘のベアテはGHQ民政局のメンバーとして来日したのだ。憲法草案制定会議で、戦前の日本女性の地位の低さを知るだけに、個人の尊厳と男女平等を日本国憲法に加えることを強く提案した。憲法第24条はこうして創られた。軽井沢に駆けつけ両親との再会を果たす。その後、シロタは米国に渡り演奏活動を続け、1965年、セントルイスで79歳の生涯を閉じた。

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