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「800字文学館」

山手通り 花と風

川口 ひろ子

 私の住まいは、環状6号線(山手通り)の初台と大橋の間にある。
 以前はここに見事なえんじゅ(槐)の並木が続いていた。
 毎年、桜が散った後、このえんじゅの木が、一斉に若葉を芽吹かせる。瑞々しい緑は日を追うごとに深みを増し、真夏の一番日差しの強い時期に、気持ちのよい日陰を作ってくれる。
 お盆の頃になると、蝶々に似た淡い黄色の花が咲き、やがて、歩道一面にこぼれる。あでやかな桜とはまた一つ趣の異なるその花は、なんとも清楚で可憐だ。
 都心にあるこの道で、かなりの交通量にもかかわらず、排気ガスや暑さをうっとうしく感じないのは、ここが東京山の手に多い尾根道で風の通りが良いことと、このえんじゅの並木のおかげだった。

 5年程前、この道の地下を走る高速道路(通称山手トンネル)の、この区間の工事が完了し、鉄パイプは外され、道も整備された。
 昔の山手通りが蘇ったが、えんじゅの並木は戻って来なかった。歩道の端に植えられたのは、丈の低いツツジだ。えんじゅは枝が伸びて車道にはみ出し、信号機を隠すためであろう。以前は、巨大なクレーンを使っての大掛かりな剪定作業をよく見かけたが、たいへんな重労働だ。
 2015年3月7日、山手トンネルは大井JCT(ジャンクション)まで延長され、首都高中央環状線は全線が開通した。これにより、新宿、羽田間の所要時間が大幅に短縮され、また、都心部の渋滞が少なくなるなど、その経済的メリットは絶大と新聞は報じている。

 木々を渡る爽やかな風、心地よい日陰、散り敷く花々、私がこの道で発見したささやかな楽しみはすべて消えた。
 老人の感傷はさて置き、時代はダイナミックに遷り変わり、経済効率を錦の御旗に掲げ、東京の街は勢いよく変貌している。
 諸行無常は世の習いだ。無駄な抵抗はやめよう。
 それに代わる楽しみは、あの頃と同じように、東京湾で生まれ、さわさわと歩道を吹き抜けて行く風と相談しながら、ゆっくりと探すとしよう。

2015年3月12日

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