旧暦の功罪
昔の文学作品や歴史書などで日付が入った記述を読むと、その時点の気候や季節の情景が噛み合わない場面があって、違和感を持つことがある。
文中の日付は当然ながら当時使われていた陰暦によっているからである。
江戸期の旅行家菅江真澄は、天明5年(1785)秋田県雄勝郡に正月から5月まで滞在し、季節や気候の状況、村の暮らしを記している。
―一1月5日、庭木に登った猫の鳴き声が日に日に春めいていく心地がする。同17日小正月、鶯が来て枝渡りをする。2月7日、今日は彼岸。同15日、釈迦入滅の日なのでお寺は参詣客で賑わう、「花の下にて春死なん」と西行が詠んだのもこの日である。4月1日、山菜採りに行った老人からイラクサ、コゴミ、シオデなどをもらう――
この記述も季節のズレが大きく、オヤッと思う。調べると天明5年1月は陽暦の2月9日から始まっているので、この記述は辻褄が合っている。
明治5年(1872)12月3日に太陰太陽暦(旧暦、陰暦、和暦)から太陽暦へ切り替えた後も、歴史上の日付は旧暦表記のままになっている。意識しないで読んでいると、季節や気候が今の季節感と異なっていて混乱する。「この日は陽暦の何月何日に当たるのか」とその都度気をつける必要がある。
赤穂浪士事件の季節感のズレはよく知られている。討ち入りは元禄15年(1702)12月14日。芝居や映画で雪が降り積もった吉良邸の場面はおなじみだが、江戸では通常12月中旬には雪は積もらない。この日は、陽暦では翌年(1703)1月30日に当たり、あの雪の景色はうなずける。
一方、月の朔望(欠け満ち)を中心に太陽の動きをも取り入れた旧暦の方が四季の節目が分かる利点がある。とくに正月は旧暦の方が季節感と合致している。中国圏では旧暦の正月を春節として春の到来を盛大に祝うのもうなずける。
今年の正月は寒さが厳しかった。太陽が春の兆しを告げる立春を過ぎ、春めいてきたころの旧正月(今年は2月19日)の方が「新春」にふさわしい。
(15・3・26)