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「800字文学館」

高級ワインに合うものは

首藤 静夫

 今年の桃の節句は肌寒く、昼間でもくらかった。近くを散歩しながら俳句をひねるつもりが、当てがはずれた。句会をひかえ、その準備ができていない。
 啓蟄や――、雛の日に――、机上では季語ばかりであとが出てこない。
 キッチンから妻の声。
「ねえ、ワインの栓抜いてデキャンターしといてよ。節句だから」
「うむ? そっちでやってくれ、今、それどころじゃないよ」
 何やらやっていた妻が「あっ、栓がちぎれちゃった。ちょっと来て」
 俳句を中断し、キッチンへ。古いコルクでよくあるトラブルだ。仕方がないので手伝いながらラベルを見た。
〈CHATEAU MARGAUX 1999〉――「シャトー…マルゴー…?!」
 冗談じゃない、最高級ブランドのコルクのトラブルだ。
 栓抜きを奪いとり、半分残ったコルクを息をつめて慎重に引き上げる。コルク片が、少し中に落ちたものの何とか抜けた。
「何だって断わりなくマルゴーを抜くんだ! とっておきの品じゃないか」
「だって飲む機会がないんだもの。桃の節句だし」
「ひな祭りとワインとどういう関係があるんだ」
 子供も孫もないわが家なので何かにかこつけて、という妻の気持は分かるが、それにしてもマルゴーの年代物だ。
 これは友人の記念品だ。彼はかなりのワインを保存したまま他界した。その夫人から記念に頂戴した中の最高の一本なのだ。
 もう致し方ない。「……それで料理は?」
「鶏肉のトマト煮と鯵の開き」
「なにっ! マルゴーだぞ。何か、いいもの買ってこいよ」
「だって、鯵、冷凍してないから早く食べないと。それに降りそうだし、イヤなら自分で買ってきたら……」
 結局押し切られた。
 それにしても周囲に漂うマルゴーのふくいくたるこの香り。これを干物でいただくとは……。
 夕飯時になり、焼いた干物が放つ匂い。テーブルは「香り」と「匂い」との、わけのわからない競演となった。
 天国の友人が恨めしく眺めていることだろう。ヘミングウェイ先生と『失楽園』の主人公たちも。

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