わかっちゃいるけど
「いかなる強大国といえども、長期にわたって安泰でありつづけることはできない。国外には敵をもたなくなっても、国内に敵をもつようになる。外からの敵はよせつけない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に、肉体の成長に従(つ)いていけなかったがゆえの内臓疾患に、苦しまされることがあるのと似ている」(リヴィウス著『ローマ史』より、塩野七生『ローマ人の物語』)
今から2,300年近い昔に語られた、古代カルタゴの名将ハンニバルのこの言葉は日本古来の「盛者必衰」の思想に通じるようだ。現代の超大国アメリカの近い将来を予告するような重みを以って現代に生きている。人は、理性でわかっているようでいて、実際の局面では歴史に学ぶ謙虚さを失いがちなのだ。
高度成長時代にサラリーマンの英雄となり、2007年に享年80で亡くなった植木等の演ずる無責任男の『スーダラ節』ではないが、人が時に「わかっちゃいるけど、止められない」のは本当なのだろう。頭もよく教養もある女が、誰が見てもつまらない男に入れあげた末に捨てられたりする話はよく聞く。
歴代のアメリカ大統領に代表される西欧的「力」の論理が、アラブ社会の人々の心には本質的に相容れられないにもかかわらず、無益な人殺しを正当化し続けている。いずれの場合も、わかりたくないから理解することを拒否、或いは実相から逃避することで安易な方法を無意識に、或いは積極的に選択してしまうのが実態なのだろう。
塩野七生女史は、男女関係も国際関係も同じようなものだという彼女独特の持論をあちこちで披露している。二つの関係のそれぞれにおいて「摩擦」とその原因がよく似ている、というのだ。ここでも「わかっちゃいるけど」が横行するが、実際はわかっていないかわかりたくないのである。
お寺の住職であった植木等の父親は、植木が「わかっちゃいるけど」を唄うことになったと報告すると、「親鸞聖人の教えそのものだ」と言ったと伝えられている。