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「800字文学館」

伊豆山神社

中村 晃也

 関係している神社の崇拝者とともに毎年各地の神社を訪問している。今年の二月末には、二週間ほど前に何でも書こう会の合宿に使った、熱海ハートピアの近所の伊豆山神社を正式参拝のため訪れた。
 何でも書こう会の合宿の度に、早起きして伊豆山神社にジョギングでいったとか、頼朝と北条政子の座った石に座ってきたとか聞いてはいたが、まさか崇拝者代表として、赤漆塗の本殿の中まで入り、宮司親子から断片的にではあるが、いろいろな話が聞けるとは思わなかった。

 社伝によれば、創建は考昭天皇の時代で、その後、仁徳、清寧、敏達、推古、考徳、後奈良の六天皇の勅願所であった由。後奈良天皇の宸筆の般若心経が保存されている。
 東国東海における第一の霊場で、梁塵秘抄に「四方の霊験所は伊豆の走り湯、信濃の戸隠、駿河の富士、伯耆の大山」とある。また富士山信仰の元を開いたのは伊豆山の僧末代上人(平安時代)であると。

 同神社は伊豆配流の頼朝を庇護し、小豪族の娘北条政子との逢瀬の場所を提供した由。当時の小豪族北条家の家人はせいぜい五、六十人だったという。
 それが縁で頼朝の鎌倉幕府開設後、伊豆大権現と箱根大権現とを二所として関八州総鎮護となる。当時所有した社領は陸上四里四方、海上見渡す限り。神官僧兵八百名を擁した。神仏習合の別当寺として高野山真言宗の般若院が隣接していた。

 社殿は秀吉の小田原攻めの際焼失したが、江戸時代に再興され三百石の朱印領を認められた。
 明治の神仏分離の勅令後、数度の火災に会い般若院は没落し、その際多数の仏教遺跡が失われた。当時は売れるものは売り、燒けるものは焼き、その他は裏山に埋められた。今でも大雨で山が崩れると埋蔵物がでてくる。
 二米を超える男神立像、重量一一〇キロを超える青銅製権現像はいずれも日本一で、前者は奈良の国立博物館で修復中である。

 般若院の敷地は現在熱海ハートピアの敷地となっている。

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