陰陽暦の対照―明治の改暦(その1)
明治政府は、文明開化、脱亞入欧策の一環として明治5年(1872)12月に、当時使われていた和歴(陰暦、旧暦)を廃止し、陽暦(新暦、西暦)を採用した。同年11月9日に太政官布告を発し、12月3日を明治6年1月1日とする、12月の残りの28日は削除するというものだった。
日本に正式に暦法が取り入れられたのは、7世紀末の推古朝時代とされ、以来約1200年間、多少の改正があったものの、1か月は29日又は30日で、1年は354日、閏月を置く年は384日とし、365日を1年とする太陽暦とを組み合わせた太陰太陽歴を採用してきた。
毎月、新月―朔日(月が立つ)に始まり、満月の15日を経て、月が隠れる30日(晦日)又は月が隠れる29日(つごもり)まで、月の満ち欠けに合わせた暦だった。
改暦は以前の日付―歴史上の日付―まで遡ることは出来ず、季節のズレのほか氣象、地震、火山活動などの記録も正確には把握できなくなった。
旧暦の日付を新暦に換算しやすくするため、内務省地理局は、明治13年に『三正綜覧』を編纂刊行した。閏月の置かれた年を特記し、毎年各月1日に対応する新暦の日付を記している。
桜田門外の変があった万延元年は次のように表示されている。
「万延元年庚申 正大丙寅 二小丙申 三大乙丑 閏三大乙未…
(紀元二千五百二十年)
西洋千八百六十年 一月廿三日 二月廿二日 三月廿二日 四月廿一日…」
三大乙丑は、大の月の3月1日を示し、3月22日に対応しており「桜田門外の変」があった3月3日は新暦の3月24日に当たるのである。
『三正綜覧』は、その後も陰暦と陽暦の換算に必須の書とされていたが最近はコンピューターの計算により修正された対照表が刊行されている。
一般向きには、『三正綜覧』に基づいて作成された『日本史年表』(歴史学研究会 岩波書店)の付録「和歴・西暦対照表」が横書きで表記されていて、旧暦の陽暦換算に便利だ。
(15・4・10)