作品の閲覧

「800字文学館」

宗谷海峡の春

首藤 静夫

 10年ほど前である。
 その頃、札幌に赴任して、系列会社の再建にあたっていた私は、仕事に忙殺され、工場・営業所にいくらか出向いたほかは北海道を知らなかった。
 この会社は、結局、自力再生はならず、大規模なリストラを条件に他社に譲渡されることになった。最後の処理を終え、ひと月後の6月には北海道を離れることになる。
 ふと、旅行がしたくなった。当てはないが、北へ行きたい――。

 旭川で宗谷本線に乗り換えて北に向かう。途中から天塩(てしお)川という大河が現れ、鉄路に添ってどこまでも流れる。士別(しべつ)、名寄(なよろ)、音威子府(おといねっぷ)などアイヌ語起源の駅を通過する。
 列車はすいていて、ボックスは私一人。ぼんやり、川柳の芽吹きと天塩の流れをみていたが、心が落ち着かない。現地で大量の解雇を行い、自分は東京に逃げ帰る――。一人旅など……、来るのではなかったか。

 稚内は風の町だ。一年中吹いているとかで、到着した日も強い西風だった。町が展望できるホテルの裏山に登ったが、ただ寒かった。
 翌日は、快晴。野寒布(のしゃっぷ)岬を訪れた。旅行者は少ない。宗谷岬とともに北の最果てで、オホーツク海と日本海がこの先で出会う。50キロほどの北には樺太があるはずだが見えない。見えたところで他国になった島だ。岬の後ろは丘陵である。その上にレーダー群がそびえる。ここは北辺の防備の地なのだ。
 少し歩くと小さな漁村があった。浜辺に腰をおろして小舟や漁網をスケッチする。風は少し冷たいが、遅い春がきているのを感じる。
 目の前の海で、胴長をつけた漁師が、長く幅の広い若布を浜に引きずり揚げている。ひとつを揚げるとまた海に戻っていく。数か月前には氷に閉ざされていたであろうオホーツクの海だ。
 町まで歩いて帰ることにした。ダ・カーポの歌う「宗谷岬」に「流氷とけて春風吹いて ハマナス咲いてカモメも啼いて……」というのがあるが、それが自然に、口をついて出る。
 着任以来の重ぐるしい気持が少し晴れるようだった。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧