作品の閲覧

「800字文学館」

12月が消えた!―明治改暦(その2)

大月 和彦

 明治政府は明治5年11月9日に「今般太陰歴ヲを廃シ太陽暦頒行相成侯ニ付来ル十二月三日ヲ以テ、明治六年一月一日ト被定侯事一ヶ年三百六十五日十二ヶ月、四年毎ニ一日の閏を置事」という太政官布告を発した。
この年は12月2日で終わり、同3日が翌6年1月1日になるという突然の改革だったから人々は驚き混乱した。
 平岩弓枝は『新・御宿かわせみ』で町内の世話役の男に「なんですか、世の中がすっかり変っちまいまして、晦日に月が出る後時世でございますから…」「旧暦から新暦に変わった時は大騒ぎで…、12月3日がいきなり元旦になっちまったんですから、松飾りどころか、餅も間に合わねぇ。初もうでにまで行きかねる按配…」と言わせている。
 当時、「春は雪、夏の初めは花盛り、秋の納涼に冬のお月見」狂歌が詠われたように人々は当惑した。

 改歴直前の11月23日に「今般御改暦ニ付テハ来ル十二月朔日、二日の両日、今十一月三十日、三十一と被定侯條此旨相達侯事」との布告(359号))を発し、奇手を使って12月を抹消したのである。12月に1日と2日が残ると官吏給料の支払いなどの問題が起こったからと思われる。政府内部の混乱ぶり伺われる。
 この結果、小の月だった明治5年11月に、ありえない30日と31日が生まれる珍事象が生じた。
 ところが驚くべきことに翌24日「第359号布告を取り消す布告」
 「第359号御布告御詮議之次第有之,御取消相成侯条右御布告書返却可有之侯也」が発せられ、11月1日と31日は消えてしまったが、11月23日の布告は法的には 1日だけ存在したのである。
 同5年2月に創刊された日刊紙「東京日日新聞」は、11月9日の布告を載せ、12月1日付の新聞は発行したが、翌日から12月7日(新暦の1月5日)までを休刊とし6年1月6日から発行している。(『明治世相編年辞典』
 陰暦にも陽歴にもありえない「11月31日」を刻んだ墓碑が都内の墓地にあると聞き、杉並区梅里の西方寺を訪ねる。墓地で落ち葉を掃いていた寺僧に尋ねると「多分Nさんのところでしょう」教えてくれる。表面の碑文は判読できないが、横面にはかすかに「明治五年十一月三十一日」と刻んだ文字が読み取れた。
 余談だが此の墓碑は、陸軍の実力者山形有朋にとり入って陸軍予備金を秘密に借入私れ暴露されると陸軍省内で割腹自殺した政商山城屋和助家の墓地だった。同家に出入りしていた左官勝五郎は主人自死を聞くその日に割腹自殺した。殉死した勝五郎の墓碑山城屋子と名の村家の墓地にあったのである。偶然なのか歴史の面白さを感じる。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧