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「800字文学館」

根室の毛ガニ

野瀬 隆平

 根室では毛ガニを食べようと決めていた。

 納沙布岬から根室に戻るバス。乗客はたった一人、自分だけだった。運転席のすぐ横の席に座ると、運転手が話しかけてきた。
「この辺りは、すっかりさびれて寂しくなりましてね。若い人も町を出るし……」
 初めて根室に来たと言うと、色々と説明をしてくれる。
「ところで、今晩、根室で旨いカニを食べたいんですが、地元の人が行くようないい店はありませんかね」と尋ねてみた。
「こちらの人は外ではめったに食べませんよ。おいしいカニが食べたくなったら、マルシェで茹でたてを買って、家で食べます」と言う。

 バスが根室駅に着いた時には、辺りはすっかり暗くなっていた。寒い。
 その足で、地元の人が「マルシェ」と呼ぶスーパーに向かう。鮮魚売り場に直行すると、なるほど、茹でたカニが並べられている。花咲ガニと毛ガニだ。一杯ずつ丸のままである。しかし待てよ。家に持ち帰るのなら、出刃包丁で殻を裂くことも出来る。けれどホテルの部屋だ。折り畳みのナイフでは少々無理だ。思案していて、ひょいと隣を見ると、何とすでに身を取り出して甲羅に盛り付けてある毛ガニがあるではないか。これだ、と迷わず決める。冷酒やおにぎりなども籠に入れレジに並ぶ。
 ホテルで食べる様を頭に描きながら帰りを急ぐ。箸は持参しているし……。ここで、はたと気が付いた。酢醤油が無い。つけなくても旨いかもしれない。が、完璧を期したい。そこで、スーパーに立ち寄ってみた。幸いポン酢の小さな瓶があった。
 ホテルに戻り、シャワーを浴び、さっぱりしたところで、豪勢な宴会を始める。何せ、甲羅に盛られた毛ガニが、お一人様に一杯ついているのだ。ポン酢をすこしたらしてパクリ。口いっぱいにカニの旨みが広がる。すかさず冷酒をちびり。

 イタリアにグランツェオラと呼ばれている似たカニがある。ほぐした身が甲羅に盛り付けられたものを、冷えた白ワインを飲みながら食べたヴェネツィアの夜を思い出していた。

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