官吏の給料カット ― 明治改暦余話(その3)
太陽暦を採用した明治五年当時の政府は、岩倉具美、大久保利通ら維新政府の要人が欧米使節団として外遊中で、三条実美、大隈重信、板垣退助らが留守を預かっていた。出発前に使節団と三条らの「留守政府」との間で留守中には大きな改革や人事は行わないとの取り決めがあった。
しかし、陽暦を使っていない国を野蛮未開な国と考えていた欧米諸国を相手に、条約改正の交渉をするには改暦が不可欠で、急を要する改革だった。
改暦は留守政府の参議で大蔵卿の大隈重信が主導して行なわれた。同年11月9日、①12月3日を明治6年1月1日とする、②1年は365日で12ヵ月に分け、4年ごとに1日の閏日を置く、③1日24時間の時刻制とする布告が出された。
改暦を急いだのは当時の危機的な財政状況が背景にあった。廃藩置県で藩から引き継いだ負債、外国債の償還のほか鉄道敷設、学校の整備などの出費が多く、政府は財政支出の削減に迫られていた。
大隈は改暦の理由に「太陰暦は伊勢神宮が独占的に頒布し、多大な利益を得ていて四民平等の主義に反する」を挙げているが、狙いは官吏給料の削減にあった。
年俸制だった官吏の給料が月給制に移行したにもかかわらず、休暇は毎月1と6の日で月に6回、このほか五節句や寒暑の長期休暇などは従来のままだったので、勤務日数は年間160~170だった。このため「懶惰遊逸の風は増長し…、且政務渋滞の幣も日一日と多きを加へ、竟には国家の禍患に…」と指摘されていた。
11月9日に引続き同月23日に出された布告は、11月を2日延長して12月をなくすことによって、12月分の給料をカットするという奇策だったが、暦法上も無理だったので、翌日取り消すという朝令暮改ぶりだった。
直前の11月27日になって、「官吏無給ノ布告」を発し、「当12月之分ハ朔日、2日両日ハ不被下…」とし、有無を言わせず12月分の不支給を強行した。
留守政府の無能さと混乱ぶりが目立った改暦だった。
参考 『大隈伯昔日譚』(1981年 東大出版会覆刻)
(15・5・14)