菅江真澄と良寛
この春、矢崎曻治氏(専修大学法科大学院教授)が新潟県の郷土史家で良寛研究家の渡辺秀英氏のライフワーク『橘由之日記』(1961年)と氏の同書についての研究を日経新聞に紹介していた。(注1)
橘由之は良寛の弟で、出雲崎町の名主を良寛から引き継いだものの晩年になって公金横領で所払いになり、出奔し旅に出る。文化年間には新潟、温海、羽黒山、酒田の各地を放浪し、和歌混じりの日記を残している。
日記の中に、文政5年の春、久保田(秋田市)に滞在中の菅江真澄を訪ねた時の記録があった。
「5月8日 雨のやや激しい日だったが、長野町の小野寺家に止宿していた菅江真澄を訪ねた。真澄は良寛禅師を知っていて、良寛の歌などについて話し合った」と記している。
真澄は随筆『筆のまにまに』に、「文政5年5月8日、久保田なる長野坊小野寺の館に在りつるに、雨いやふる日、越後ノ国蒲原郡出雲崎の橘巣守由之訪来、此の翁、『海月之ほね』といふかなつかひの小冊を編めり。(中略) 此由之翁が国上山の手毬上人良寛之舎弟なるよし…」と書き、良寛が国上山で詠った旋頭歌「山たつのむかひの岡に小牡鹿たてり 神無月時雨のあめにぬれつつたてり」を記した。真澄は、五合庵の「手毬上人」良寛のことを知っていた。
天明年間に信州洗馬にいた真澄が、筑摩(つかま)の湯(松本浅間温泉)に湯浴み来ていた良寛の師玉島円通寺の国仙和尚と出会い、真澄の叔父の同門先輩だったことから親しく語りあったとの記録がある。
以前、拙文「信州の菅江真澄」(注2)で、この場面を紹介し、根拠がないものの「この席に、良寛が国仙和尚と一緒にいたことも考えられ、脱俗生活を送っていた真澄と良寛、当時の自由人二人が顔を合わせたと想像するのは楽しい」と書いた。
はからずも真澄が、良寛その人ではないものの弟と出会った記録が見つかり、二人を繋ぐ糸があることが分かった。ささやかな「発見」にひとり悦に入っている。
注1 日経新聞(平成27・4・2)文化欄「良寛の弟と和歌の旅」
2 『悠悠』21号(企業obペンクラブ)「信州の菅江真澄」
(15・5・28)