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「800字文学館」

怪獣キメラ

藤原 道夫

 キメラ(キマイラ)はギリシャ神話上の怪獣で、ライオン・山羊・蛇から成る。キメラはまた医学用語として次の状態に使われている。白血病患者が骨髄移植療法を受けて成功した場合、患者の体内に別人(骨髄ドナー)の造血系幹細胞が定着し、正常な血液細胞を造り続ける。記号で示すと、Aさんの体内でBさんの血液細胞が生き続け、Aさんは生き伸びる。(注参照)

 注。AとBとでは、遺伝子によって決まる白血球の型がある程度一致している。完全に一致することは一卵性双生児の組み合わせ以外にない。正常なAでは免疫系が働いてBの細胞を排除する。一方キメラ状態ではBの細胞は排除されず、Aの中に共存して重要な役割を果たしている。

 研究の過程で、私は実験動物を用いてキメラ状態を作った経験があり、神話上のキメラに関心を抱いていた。ふとした機会に、この怪獣の像がフィレンツェの考古学博物館にあることを知った。現役だった時、ローマ郊外で開かれた学会に出席した折に、時間をやりくりしてフィレンツェを訪ねた。博物館にたどり着き、受付でキメラ像を見に来た旨話すと、しばらくして学芸員とおぼしき紳士が現れた。医学関連分野の研究者が同じ目的で時折ここを訪ねてくるとか。そして紳士は申し訳なさそうに、現物はロンドンの博物館に貸し出し中だと言う。替りに古代ギリシャの大甕を見学できるように便宜を図りたい、と提案してきた。貴重な体験になったであろうが、その時の私は大甕に興味を持てなかった。キメラ像が展示されている時に再訪することを期し、博物館を辞した。

 それから3年ほど経って、アレッツォの街を訪ねる機会があった。駅前広場でホテルへの道を探していると、右手奥に台座に載ったライオンのようなブロンズ像が目に留まった。近づいてよく見ると、頭がライオン、胴体は山羊(頭部が背中に載る)、尾は蛇の怪獣だった。これこそ見たいと思っていたキメラに違いない。予期せぬ遭遇に興奮しながら写真を数コマ撮った。後からこれはフィレンツェにあるキメラ像のコピーだと分かった。実物はエトルリア(紀元前5~4世紀)の製品で、像が建っている辺りで発掘されたとか。これでフィレンツェの考古学博物館に用事がなくなった。

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