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「800字文学館」

頼朝は善光寺に参拝したか

大月 和彦

 今春のNHKテレビ『新日本風土記』―長野・善光寺―は、善光寺御開帳の模様を伝え、本堂へ向かう参道で回向柱を曳く行列の映像に、「昔、頼朝が歩いたこの参道を…」とあった。
 7世紀後半に創建された善光寺は、中世以降武士階級の信仰を集め、とくに頼朝は深く尊崇し、手厚く保護した。
 頼朝挙兵(1180年)から87年間の鎌倉幕府の動向を年月日順に記述した幕府編纂の史書『吾妻鏡』に、善光寺についての記事がいくつかある。

 治承年間に炎上した同寺の再建について、頼朝が信濃国の荘園領主や御家人に対し協力すべきとし、「この寺は霊験殊勝の伽藍である。草創は旧く、堂宇が破壊し,火災之難を受けて礎石のほかに残る物が無く、有情の輩はなんでこのことを嘆かないでいられようか。早く国中の荘園公領を言わず、一味同心勧進上人に協力するように」と命じている。また、側近の比企能員を介して勧進上人に協力して造営工事を急がせたとの記述もある。

 頼朝は同寺に参拝したのだろうか。
 同書中、建久6年8月2日の条に、頼朝が上洛し東大寺供養を済ませた後、「放生会以後信濃国善光寺御参有る可の由被仰下…」とあるが、同23日には、「善光寺参詣の事暫く延引す、漸く寒天に属せしめば明春たるべき由、御家人等に触れ仰せらる…」と参拝延期の記事が続いている。

 一方、善光寺周辺には頼朝の参拝の記録・遺物・遺跡が多く残っていて参拝を裏付けている。善光寺縁起には頼朝は建久8年6月15日に参拝、大勘進で法華三昧経を修める、中御所に宿すとある。  参道には頼朝が参拝した時ここで馬を降りて徒歩で向かったという「駒返しの橋」がある。長さ1mぐらいの石橋で、参拝客の多くは気がつかず渡っている。

(参考 『善光寺史』 坂井衡平 昭和44年 長野市教育会)

(15・6・10)

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