作品の閲覧

「800字文学館」

平野屋のいもぼう

藤原 道夫

 久しぶりに京都でいもぼうを食した。
 知恩院の威圧的な三門を左手に眺めながら円山公演に入ると、すぐ右手に「平野屋本店」の鄙びた店構えが目に留まる。玄関先で作務衣姿の中年男性が出迎え、石造りの廊下を通って真ん中あたりの六畳ほどの部屋に案内してくれた。靴を脱ぎ、襖絵で飾られた座敷に上がっていもぼう膳を注文。
 いもぼうとは、海老芋と棒鱈とをじっくり炊きこんだこの店独特の料理。店のリーフレットによると、海老芋は300年前に九州から京に持ち込まれたもので、円山山麓の土地によく合い、良質な品種となった。棒鱈はマダラを三枚におろし、棒のように乾燥させたもの。蝦夷から御所に献上され、珍重されていた。これらを組み合わせてうまく料理する方法を開発した先祖が、「平野屋」の屋号を賜り、いもぼうの商いを始めた。
 膳には他に先付や豆腐が付いて2,500円ほど。美味しく頂きながら郷里の棒鱈の煮つけのことを思い出していた。
 勘定をしに玄関まで戻る。先程の作務衣姿の男性は当店のご主人のようで、心遣いが行き届いている。私が会津の出身で、昔よく棒鱈の煮つけを食べた話をすると、次のようなことを教えてくれた。江戸時代末期、会津藩主で京都守護職を務めた松平容保公が平野屋でいもぼうを召し上がって大変気に入り、海産物の乏しい会津にも棒鱈を導入することを図った。この時「会津でも平野屋と同じ問屋から仕入れる」ことを決めた。これは今も続いているとか。
 私の実家では、棒鱈は納戸に無造作に置かれていた。必要な時に取り出され、縄でくくられて中庭の池に放り込まれた。そこにヒルがついていたのを覚えている。包丁で切れるようになった頃合いを見計らって引き揚げられ、山菜とともに料理された。田植えの時期によく出てきたようだ。おいしいと思わなかったが、棒鱈は貴重なタンパク質源であり、農繁期に食する習慣はまさに生活の知恵だったのだ。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧