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「800字文学館」

トルストイを愛した文学者

都甲 昌利

 北御門二郎さんをご存じだろうか。彼は1913年熊本県の地主の次男として生まれる。旧制五高から東京大学英文科に進むが、学生時代にトルストイの著作、「人は何で生きるか」、「イワンの馬鹿」などを読んで感銘を受け、英文科に入学したものの、嫌気がさしロシヤ語を学ぶためにハルピンに渡る。

 日中戦争が勃発したため帰国。日本は第二次世界大戦へと突き進む。当然のことながら、次男である彼に徴兵が待っていた。しかし、「愛国心ゆえに隣人を傷つけるとするなら、それは罪悪である」というトルストイの「絶対的非暴力」を貫いて銃殺覚悟で徴兵拒否をした。多くの若者や学徒が「国のため」と命を投げ出して戦地に赴く中で、徴兵拒否をした彼を「弱虫」、「裏切り者」、「国賊」と人々は罵倒した。結局、軍部は「頭が狂っている」とし徴兵はできないとされ、兵役を免れる。東大を退学、故郷熊本に帰り、以来、「農業は一番罪がない」と田畑を耕し自給自足の生活をしてトルストイの翻訳と研究に没頭した。『戦争と平和』や『復活』など多数の訳書を出版し、トルストイの思想を広めた。

 私が彼の生き方に感銘を受けるのは、国をあげて戦争を遂行した時代にその流れに屈することなく信念に従って生きたということだ。鍬を銃に換えることは決してしなかった。

 戦争が終わり多くの若者が戦死した。だが、北御門さんは決して彼らの生き方を批判しなかった。むしろ若者を戦地に送り出した支配者や軍部を憎んだ。極東軍事裁判で東条元首相が絞首刑の判決を受けたことをラジオで聞いた時でも、無言であったという。
 戦後も依然として「農業こそは人類の基本」という思想を貫き日本の高度成長時代にも晴耕雨読の生活をつづけた。生活は苦しかったが子供達にもこの思想を継がせた。
 組織の中で、それが国であれ、会社であれ、正しいと思っても体制に反して個人が行動を起こすのは困難だ。いろいろ考えさせられる彼の生き方である。

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