『ドナルド・キーン著作集』より(2)―漱石と鷗外―
キーンさんの評論は、日本の古典から戦後文学にまで及び、その造詣の深さ、文章の溌剌さに驚かされる。ただ、明治に入ると筆が少し鈍るようだ。
漱石・鷗外の作品についても「欧米で多くの読者の興味を惹くとは思えない。我々には漱石の『坊ちゃん』の魅力も、鷗外の『雁』の哀愁も、何れも身近に感じることが出来なくて、こういう小説は日本よりもヴィクトリア時代中期の群小作家の作品を思わせる」と手厳しい。やはり欧米人の目線なのだろうか。
漱石については、「彼が特に興味を持ったのは、日常生活の平穏な推移のうちにある人間の姿だった。漱石の作品が今日でも日本で広く読まれているのはその名文のためと思われるが、欧米の読者は、そこに認められる東洋風の諦観をもの足りなく感じるかも知れない」とする。
漱石では『草枕』を評価するもののそれは「表現の美しさや後味の良さ」であり、「物語の面白さは谷崎や芥川等に及ばない。(中略)世界の古典になかなかなれないと思う」という。
鷗外では、「愛読者は『舞姫』や『即興詩人』を書いた頃の鷗外の文体の美に感激しても、最終的には史伝に表われた堅い、決してわれわれに媚びない、武士の文体に鷗外の本当の姿を見分ける」とし、彼の史伝は小説としての良さを欠くという。『澁江抽斎』のような作品だ。
二人とも小説・物語よりは口語体による文芸の確立者という評価だ。ロシアのゴーゴリを思わせる。
では、トルストイやドストエフスキーにあたる作家は誰だろう。
残念ながらそれはいないと彼は言いたいようだ。志賀直哉などの私小説は論外のようで、かろうじて谷崎と三島あたりか。
司馬遼太郎はどうだろう。彼については、「小説家としてよりも、素晴らしい人間としての司馬が、私の記憶の中では、よりはっきりと生きている。(中略)彼は立派な人間であった」という。
作品論を始めると厳しくならざるを得ないと考えたのか人物評に切り替えたあたり、キーンさんは日本人ですね。