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「800字文学館」

三陸海岸、田老で

大月 和彦

 先日、東日本大震災後初めて三陸沿岸を訪ねた。宮古から三陸鉄道北リアス線に乗って北上した。休日にはイベント列車に使われるレトロ風列車。座席は背もたれの高い椅子、間にテーブルがあり、天井からシャンデリアが下がっている豪華な車両だった。
 リアス海岸に沿って北上し、久慈でJR線に接続するこの線は、震災後比較的早く復旧している。北上山地の東側に点在する集落を繋いでいるためトンネルと橋が多い。

 20数分で田老に着く。深く湾入した田老湾は地形の関係から津波の常襲地だった。明治三陸、昭和三陸、チリ沖地震の津波でその都度壊滅的な被害を被っている。
 昭和三陸津波以来、沖合いと海岸に防潮堤を作る工事を始め、昭和34年に高さ10mの万里の長城といわれる大防潮堤が完成した。
 しかし3・11の津波で沖合の防潮堤は破壊され、海岸の防潮堤を乗り越えた波で集落は流されてしまった。
 高台にある田老駅のホームから見ると異様な光景が広がる。200m先の海岸までは人家がなく、白っぽい荒涼とした土地が広がり、その先には防潮堤と水門の残骸が見える。
 かつて民家が建ち並んでいた場所には大きなコンクリート工場が造られ、20数台のミキサー車が並ぶ。各地の復興工事に供給するコンクリートの基地になっている。村人が野球などを楽しんだグラウンドもあったところ。
 賑わっていたであろう集落の中心部にはまだ建物などの礎石が見られる。一部には太陽光発電のパネル群が広がっている。
 山際にあった観光ホテルも津波に襲われ5階建ての残骸をさらしている。ホテルは近くの高台に移転したが、この建物は震災遺構として残すという。
 倒壊を免れた防潮堤に上がると豊かそうで波静かな田老湾があった。

 工事用の車が疾走する道の端に、小さな仏像らしいのが数体無造作に並べられている。顔や体に傷がある。かたわらに枯れた花やペットボトルが散らかっていた。
 田老地区と豊かな海の恵みを受けていた人たちはどうなるのだろうか。

(15・7・23)

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