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「800字文学館」

妖怪鵺(ぬえ)の霊は成仏できるのか

藤原 道夫

 能『鵺』(世阿弥)は、『平家物語』の「鵺」を基にし、これに僧が鵺の亡霊を弔う場面が付加され、能独特の様式に従って物語が展開される。以下に『鵺』の要点を記しながら、現時点で私が感じていることを述べてみたい。
 丑三つ時御所の上空に現れ、時の天皇(近衛院)を苦しめた妖怪鵺は、高僧の祈祷によっては引き下がらず、源三位頼政の放つ矢で撃ち落された。このことが鵺自身によって二度謡われ、また里の者により語られる。撃たれた鵺は頼政に対して恨みを抱かず、天罰が下されたと思い知る。鵺の亡骸は空舟に閉じ込められ、淀川へ流された。
 亡骸は摂津の蘆屋に着く。諸国一見の僧がそこを通りかかり、毎夜化物が出るという洲崎の御堂に泊まるはめになる。夜半に空舟に乗った鵺の亡霊が現れ、身は籠の中の鳥、心は暗闇の中の埋れ木のようだと嘆き、法の力を頼む。里の者が僧に鵺について知ることを語り、弔いを勧める。僧は鵺の霊をねんごろに供養する。僧の読む経文「一仏成道観月法界 草木国土悉皆成仏…」が鵺に通じ、鵺は感謝する。この辺りに能『鵺』の核心があるように思う。
 妖怪鵺を退治した頼政に天皇から御剣「師子王」が下賜される。この時大臣が階で「ほととぎす 名をも雲居に 上ぐるかな」と詠んだところ、頼政は「弓張月の 入るにまかせて」と下の句を詠み返した。文武両道に優れた頼政の面目躍如たるところだ。これが鵺によって謡われる。一方鵺は暗闇に落とされたことを嘆き、「遥かに照らせ山の端の月」と言いつつ海月に消える。
 能『鵺』に関連する諸問題の中で私が最も関心を抱いているのは、仏法に反した妖怪鵺の霊が成仏できるのかという点。詞章を読み込むと、鵺は自ら仏性を持つと言い、僧の読経を有難く思い、もっと光を当てて欲しいと願う。これらのことから成仏への道は開かれたと判断するのが妥当だろう。成仏するには引き続き供養が必要になろう。ここに世阿弥の仏教思想を垣間見る思いがする。

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