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「800字文学館」

ソプラノとバス

平尾 富男

 友人は学生時代に混声コーラスに熱中していた。通っていた大学には女子学生が少なかったから、女子大の合唱グループに声を掛けて合同合唱団を結成し、大学祭を中心にコンサート活動を行った。今でも昔の仲間や地元のコーラス愛好家を誘い、歌唱指導には知り合いのピアニストにお願いして楽しんでいる。
 男性8名、女性14名の構成だからソプラノ、メゾソプラノの女性パワーが強い。女性の平均年齢が48歳に対して男性のそれは56歳、3名しかいないバスに至っては全員が65歳以上だ。友人はその中で最高齢の71歳。うら若い女性指導者からの叱咤激励が恐ろしいらしい。
「バスの人、声を出していますか。全然聞えませんよ。これではせっかくの混声合唱の厚みが薄れますね」などと指摘される。
 練習を終え帰宅して、奥さんの手料理で晩酌を楽しんでいると、ソプラノの美声がキッチンから聞こえる。
「あなた、今日の夕飯はいかがでしたか。……えっ、今何と……。美味しかったら美味しいと、不味かったら不味いとはっきり仰ってくれないと、作る方は張合いがないわ」
 奥さんは友人が学生時代に所属していたコーラス・グループの仲間だったから、今でも家で奥さんに頭が上がらないのだ。
 最近、グループに30代の見目麗しい女性が入ってきた。ソプラノの彼女の声はひと際目立って聞こえる。男性陣の歌声にも力が入った。思い切り声を張り上げるようにして歌う男性の中で、明らかに音程を少々外したバスの声があった。
 その日グループの練習を聴きに行っていた奥さんが、練習の後の懇親会から家に戻った友人に言った。
「何で今日は一人あんなに大きな声を出していたの」。友人のバスはそれに応えて茶の間に響いた。
「新人のソプラノが目立っていたからバランスを考えたんだ。若い頃は君のソプラノも特出していたよな。それに惹かれて口説いたんだけど、今思うと失敗だった」
「私だって、他の男性が歌っている声とあなたの声を取り違えて聴いていたのよね」

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