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「800字文学館」

昭和30年代の農村学校給食

志村 良知

 横浜市の中学には給食が無いと聞いて驚いた。私は昭和三十年に小学校に入学した時から中学を卒業するまで9年間、パンが主食の完全給食だった。その前の保育園でもミルクと副食の給食があった。
 給食は、アルマイトのお盆にアルマイトのお椀と平皿、先割れスプーンが配られ、基本はパンとミルクでそれに何か一品の副食が付き、パンには銀紙で包んだキャラメルのようなマーガリンか、プラスチック小袋のイチゴジャムが付いた。パンはコッペパンが主で、たまに食パン。コッペパンを揚げて砂糖をまぶした揚げパンはなぜか好悪が分かれた。
 ミルクなるものはバケツで運んで、ひしゃくで分ける脱脂粉乳だった。これは全く人気が無く、保育園時代から「みーるく、みるく、おいしいみるく、あーまいみるく、みんみんみるく」という歌まであって奨励されたが、ミルクではなく他の汁物やカレーのときは安堵の声が上がった。
 しかし、シチューが初めて出た時は誰もがカレー粉を入れ忘れたカレーだと解釈し、みみずのようなマカロニが不気味で大量の食べ残しが出た。粉ぼうとうという小豆の汁にうどんが入った郷土料理の汁ものは甘いので人気があったが、私は粉ぼうとうが大嫌いでこれが出ると体が固まり、涙が出た。給食定番のクジラのフライや竜田揚は勿論人気メニューだった。

 私の家の炊事担当は婆様だったのでおかずは極めて古典的だった。配付される給食の献立表と私の話は婆様にとって良い刺激であったようだ。給食担当のコバヤシさんという威勢の良い栄養士さんによる家庭向け料理講習も行われた。パン、マヨネーズ、ポテトサラダ、竜田揚げ、魚肉ソーセージ、魚フライなどが食卓にも取り入れられ、我が家でも定番になっていった。

 調理は学校の裏手にある給食室で行われ、給食当番が取りに行くとコバヤシさんが配膳法を説明してくれた。「でかいけつだなあ」「ほうさよう、栄養が良いだもん」。彼女は悪餓鬼の扱いにも長けていた。

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