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「800字文学館」

おばあさんの気、音楽の力

藤原 道夫

 「芸を極めた巨匠による演奏を昼下がりに愉しむ」―堤剛さんがバッハの無伴奏組曲から二曲(三番と四番)などをマチネーで弾く―そんなチラシを見てチケットを早々と入手した。
 梅雨明け前の蒸し暑い当日、会場の浜離宮朝日ホールに開演時間ぎりぎりに到着した。席は前方の通路脇、隣におばあさん(年恰好八十歳過ぎ)が前の座席の背もたれに寄りかかり、目を閉じて座っていた。着席するとおばあさんが小さな声で「体調があまり良くありませんので、お宅様にご迷惑をおかけするかも知れません」と話しかけてきた。「席を替わりましょうか」と言うと、「いいえ、ここでいいです。陽気のせいか血圧が下がったようです」。とっさに私の手が伸び、おばあさんの脈をとっていた。このような所で初めての経験、ごく自然にそうしてしまった。おばあさんは腕を動かすこともなく、成り行きにまかせている様子だった。脈は規則的でしっかりしており、血圧が低そうでもなかった。「大丈夫でしょう」と一声かけると、おばあさんは無言で小さく頷いた。
 堤さんは磨き上げられた渋い音を奏でた。休憩時間に入った時、おばあさんは背筋を伸ばし、しっかりとした声で話しかけてきた、「堤先生の音楽から力を貰いました。それにあなた様に声をかけて頂き、心強かったです」。そしてこちらにきっちりと顔を向けて「音楽には人柄が出るのですね。すばらしい音ですね」と実感のこもった声で語った。「おっしゃる通りですね」、私は大きく頷いた。
 演奏会は「鳥の歌」のアンコールで締めくくられ、盛大な拍手のうちに終わった。おばあさんはすっくと立ち上がり、しっかりとした足取りで歩き始めた。「今日の演奏会はすばらしかったですね、気を付けてお帰り下さい」と月並みの言葉を交わし、別れた。
 万全とはいえない体調で会場に足を運び、真摯に音楽に耳を傾けて力を貰う、そんなおばあさんから私の方が気力を頂いた気分になった。

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