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「800字文学館」

松栄丸漂流民のその後

大月 和彦

 今年7月、秋田市の無明舎出版から小林郁著の『松栄丸広東漂流物語』が刊行された。
 江戸後期、蝦夷の海産物を積んで松前から江戸に向かった松栄丸(七百石積み)が八戸沖で難破、167日間の漂流の後、中国の広東省に漂着した。
 2年後、生き残った乗組員11人が長崎に送還されるまでの顛末が詳しく記されている。
 松栄丸の漂流については、『江戸漂流記総集』(日本評論社1997年)にも記されているが、今度の本は南部藩家老の記録や関係者の町村史、寺院の文書などを丹念に調べ、帰国後長崎から故郷に帰った後の状況をも明らかにしている。

 3年前、「むつ川内川の渡し守――松栄丸漂流記」を「800字文学館」に投稿した。
 下北半島を歩いていた菅江真澄が半島南部の川内村で会った渡し守が、「自分は東回り廻船の船乗りだったが遭難し、唐へ流された後、最近帰国した。その罪を問われ、今はこんな仕事をしていると嘆いていた」と真澄は日記に書いた。
 この男は松栄丸の乗組員で南部藩領川内村の水主利三郎と分かったが、利三郎以外の乗組員のその後の消息は分からなかった。

 今度の本で次のことが分かった。
 送還された漂流民11人は長崎奉行所で取り調べを受けた後、南部藩領の5人は藩役人に連れられて盛岡に着いた。藩主に謁見した後、寛政3年(1791)川内村などの生まれ故郷に帰りついた。
 5人の平均年齢は32歳と若かったが「公儀御大法」を破った罪人であり藩当局は「此の者たちは船乗り渡世を止められる」とし、一人扶持を支給し、年2回彼らの状況を観察していた。

 帰郷してから3月後、藩当局の史料には五人とも落ち着いていたとの記録がある。真澄が川内川で利三郎に会ったのは寛政5年5月だった。同9年には最年長で楫取りだった男が死亡し、同10年には他の二人が、同11年にはもう一人が「慎ましく生きている」との記録があった。
 利三郎のその後は不明だが、波瀾万丈、稀有な体験をした漂流民が故郷で余生を送ったことが明らかになった。

(15・9・10)

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