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「800字文学館」

兵隊さんの投げた缶詰

川口 ひろ子

戦時中の暗くて貧しい食卓を偲んで、終戦記念日には「茄子のすいとん」を食べることに決めている私、猛暑の今年はみかんの缶詰に変えた。八方を探し明治屋で大型の缶詰を見つけた。夕食のデザートは良く冷えたこのみかん、程良い酸味が暑さを忘れさせる。

 昭和19年頃、私は静岡県の国民学校1年生で東海道の宿場町に住んでいた。
 5人程の友達と道端で遊んでいる時に、沢山のトラックがやって来た。部隊の移動だろうか、荷台には大勢の兵隊さんが乗っている。私たちは道端に一列に並んで車列を見送った。その時「兵隊さんに万歳しよう」と、誰かが言いだし「そうだ!」と全員一致、両手を挙げて、元気よく万歳コールを送った。その姿が可愛かったのだろう、トラックから何かが投げられた。一行が去った後、駆け寄ってみると、それは、縦11センチ、直径8センチほどのみかんの缶詰であった。当時、甘いものは兵隊さんのみが入手できる貴重品だ。
 嬉しい贈り物は、近くの紺屋のお婆さんの家に行き皆で戴いた。残ったのはシロップだ。このお婆さん「この汁は子供には毒だから」と言って蠅帳に入れてしまった。
 毒だなんてそんなことはないだろう、帰り道で私は思った。そして、少し前に読んだ一休さんの話を思いだしていた。一休さんが仕える和尚さんは、大変厳しいお人であるが大の甘党で、夜毎、水飴の甕を抱いて押入れに入り、こっそりと舐めるのだという。あのお婆さんも、暗くなると押入れに隠れて、残りの汁を吸って「かんろ、甘露」と喜ぶのだろうか、と、想像した。

 東名高速はおろか、新国道(現在の国道1号線)もない頃、舗装もされていない、江戸時代さながらの曲がりくねった東海道を、もうもうと土煙りをあげて走るトラック。兵隊さんが投げてくれたみかんの缶詰。
 あれから何と70余年が過ぎた。
 透明なガラスの器に納まった冷えたみかん。その向こうから、太平洋戦争末期の、子供時代の風景が鮮やかに蘇ってくる。

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