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「800字文学館」

トスカーナのペコリーノ

藤原 道夫

 ある年の8月、4人のグループでイタリア・トスカーナの小都市を巡った。シエナに滞在中の一夜、レストランの重い食事を避けて自分たちで食材を調達し、ホテルの部屋で土地の赤ワインを味わおう、ということになった。惣菜を求めに肉屋に入ると、異様な臭いが漂っていて辟易したことを思い出す。臭いの大元がペコリーノだった。ペコリーノはイタリア原産の羊のミルクから作られる塩気の強いセミハードタイプのチーズで、特殊な黴をつけて熟成させるため、独特の臭みがある。これは避けた。
 トスカーナ巡りで、ピエンツァも訪れた。シエナからバスに乗って凡そ一時間半、街の入り口のバス停で降りた。ここから世界遺産「オルチャ渓谷」が見渡せる。なだらかな起伏の緑の丘が連なり、糸杉が立ち並ぶ。これを世界で最も美しい風景の一つに挙げる日本人ベテラン・ガイドもいる。この辺りでもペコリーノの生産が盛ん。ピエンツァの街は当地出身の法王ピウス二世(15世紀)の命で、理想的な都市を目指して造成されたとか。門をくぐって街に入った途端に異臭が漂ってきた。通りの両側にチーズを商う店が立ち並び、大量のペコリーノの発する臭いが街頭に漂っているのだ。
 ペコリーノを実際に食したのは、同じ年の12月シエナを再訪した時。「ブランダの泉」を見てから長い坂道を登り切り、中心部に出てランチを摂った。チンギアーレ(猪)のひき肉ソースをからめたフェットチーネを注文、半量にして貰う。セコンド(主食)に替えてペコリーノを注文したところ、数切れのチーズと蜂蜜入りの小鉢が4つ出てきた。ペコリーノは臭みが程ほどで、味わい深かった。蜂蜜はそれぞれ特有の香りと味がした。両者を取り合わせた味は分からずじまい。全部平らげると塩分も糖分も摂り過ぎになりそう。蜂蜜は少しだけ摂った。残したチーズは持ち帰り、ホテルに戻って食した。3時間程の間に味わいが失われていた。チーズは切り立てに限る。

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