戸隠の中村草田男
信州戸隠神社宝光社のある宿坊の客間に
葉桜の西行桜へやや道草 草田男 の色紙があった。
草田男は昭和38年夏、家族とともにこの宿坊に滞在し、戸隠の神社や高原を散策した。この時詠んだ「戸隠行二十六句」中の一句である。
宝光社から中社に向かう坂道の途中にある戸隠神社の一つ日之御子社に立ち寄り、境内にある西行ゆかりの大山桜の老木を詠ったもの。
「戸隠行二十六句」には、「戸隠、宝光社の宮司京極家に二泊す。同家の子息は、わが勤務先なる成渓学園においての同僚なり」の詞書を持つ
山坊すずし古屏風画中真紅の日
夏山夏谷坊の父と子ただに楚々 の句がある。
江戸時代から続くこの宿坊には、神を祀る神前の間と参拝客などを泊める客間がある。前句は客間の床の間に置かれた舞う鶴と真っ赤な陽が描かれた古びた屏風を詠んだもの。
二句目は当時この宿坊の当主だった神職の親子を詠む。二人の風貌と漂う雰囲気がうまくとらえられている。
中社と奥社まで足をのばした草田男は、中社で川中島合戦で対決した謙信と信玄の二人が戦勝を祈念して参拝した記録を見て
英雄対峙の祈願書二通山の霧 の一句。
すぐ裏に岩壁を背負って建つ奥社に参拝し、前年雪崩で倒壊した社殿跡をみて 夏山すさまじ敗戦以後の雪崩の迹 と詠む。
夏の終わりに宝光社の集落で行われる賑やかな地蔵盆の祭り。祭会場から笛太鼓の音が聞こえてくると夕食もそこそに、宿の鼻緒の太い俎板のような大きく無骨な下駄を引っかけて地蔵堂に駈けつけて六句(四句略)。
戸隠祭太鼓と笙とまちまちに
祭下駄俎(まないた)はきてかけるはや
数年前他界した宿坊の子息は生前、この時を振り返って、草田男は話の途中「山の中を歩いていると性欲を感じますね」と脈絡もなくふと洩らされたと回想している。
参道や境内に鬱蒼と茂る杉木立に地元の人は霊気を感じるという。この巨匠は戸隠の神域と高原の豊かな森に特別な精気を感じ取ったのだろう。
参考 『中村草田男全集5』みすず書房 1987年 (15・9・24)