三内丸山遺跡 ~文化先進地域~
たまたま八戸で会合があったついでに、翌日一人で青森まで足を延ばして三内丸山遺跡を訪れた。一度行きたいと思いながら今まで機会がなかったのだ。新青森駅でシャトルバス「ねぶたん号」が出迎えてくれた。
この縄文遺跡は江戸時代から知られているらしいが、500人もの人が居住した大規模集落だったことが二十年ほど前にわかって一躍有名になった。
中でも六本の巨木柱痕が発見されたことは、古代ロマンの夢を誘って話題になった。この柱が何らかの建物跡だったことは確かだが、それが望楼なのか神殿のようなものなのかはわかっていない。現在、ロシアから持ってきたというクリの巨木で三層の櫓が再現されているが、近くで見上げると五千年前の縄文人がぐっと身近に感じられた。
縄文時代、日本海側を中心にして巨木文化が栄えたことが知られている。
出雲大社から直径1mを超える巨木を三本束ねた柱痕が発掘されたが、この技術は縄文時代に淵源があるといわれる。また金沢のチカモリ遺跡、能登の真脇遺跡では、三内丸山で発見されるより前に同じ巨木柱痕が発掘されている。その他富山の井口遺跡、古沢遺跡、糸魚川の寺地遺跡、長野の阿久遺跡などなど、巨木文化につながる発掘はかなりの数にのぼる。
また建物ではないが、諏訪神社の御柱祭は四本のモミの丸太を切り出して各宮に建てる神事であるが、これも巨木文化の名残といわれる。
こうした中で三内丸山遺跡で巨木柱痕が発見されたことは、巨木文化の歴史に決定的な証を与えたといっても過言ではない。
巨木文化は高度な建築技術である。三内丸山遺跡での新たな発見は、縄文時代がそれまで考えられていたよりはるかに高度で豊かな文化をもっていたことを示している。そしてその中心は山陰、北陸から東北に至る日本海側にあった。
私は日本海側の生まれだが、その地がはるか縄文時代に遡れば文化先進地域だったことを知って単純素朴だが一層縄文時代に関心が湧くのである。