シュレディンガー岳に登る
十数年前、単独行で八ヶ岳連峰の阿弥陀岳に挑戦した。入道のような山頂の首筋は岩場が切立ち、足場が脆く滑りやすい。若い登山者たちは軽快に上り下りするが、還暦を過ぎていた私は己の体力と運動能力を考え、肩付近より引返した。
その山容を悔しい思いで見上げる日々が続いたが、数年後に再び肩まで登ると、首筋に鎖と鉄梯子が取付けてある。これ幸いと念願の頂上まで登った。
話は大学に入った年に遡るが、先々は原子物理学を専攻しようと量子力学を受講した。講師が次々と黒板に書き続ける数式を必死にノートにとり、帰宅後に復習する。ニュートンの古典力学には自信があり、アインシュタインの相対性理論の啓蒙書なども読んでいたが、講義に付いていけない。
唯一の学術書がディラック著(朝永振一郎訳)の本だったが、読んでも解らない。古典力学では諸式が自分の感覚と対応するので理解し易い。ところが量子力学ではハミルトニアンのような抽象的な高等数学で論理が展開する。
最終的には光と物質の同一性や不確定性原理が導かれる筈なのだが、その基本式となるシュレディンガーの波動方程式まで辿りつかないのだ。
当時は山での若者の遭難が相次ぎ、自己の登山能力に対する冷静な判断が求められていた。量子力学が急峻な連峰に思えた私は、主峰のシュレディンガー岳の登頂を諦め、残念だが別の専攻へと進んだ。
つい先日、大学講座 gaccoの「究極のナノマシン/ナノ物質の世界」を聴き始めた。最先端の科学技術の動向を知りたいという軽い気持ちだったが、その後半がなんと量子力学の講義であった。
オンラインのパワポでの講義は何度でも聴き返せる。論理展開も難解な個所の詳細を省略して、全体の理解を優先し次へと進む。手取り足取りの教え方は阿弥陀岳の鎖と鉄梯子のように親切だ。
高等数学に六十年間ご無沙汰していたのに、この齢でシュレディンガー岳の登頂を果たすとは。これも只々、昨今の教育法の進歩のお蔭である。