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「800字文学館」

ネアンデルタール人のことば

志村 良知

 20年ほど前、デュッセルドルフの東でネアンデルタールという地名を見つけ、そこに寄り道して遥か原始に思いを馳せたことがある。その頃はネアンデルタール人はホモサピエンスの出現直後に滅びたと思っていた。しかし、最近そうではなく、ネアンデルタール人とホモサピエンスはヒトの段階まで進化した霊長類として同時代を並列に生き、混血の可能性もあった事を知った。

 ネアンデルタール人は、頭蓋骨容積がホモサピエンスより大きく、体も頑強であった。しかし、7万年前から5万5千年続いた最後の氷河期を生き残ったのはホモサピエンスだった。ネアンデルタール人滅亡の諸説の中で興味あるのは、彼らは抽象的な概念について思考したり、伝えたりする能力が欠けていた、その原因は、なんと彼らの喉の構造にあった、という説である。
 それによると、ネアンデルタール人は喉の空気の通路が短く、頭蓋骨内部の喉上部の骨が平らで響鳴空間が狭く、限られた音しか出せなかったらしい。この結果、コミュニケーションや抽象的思考の道具として必須な高度な言語が発達しなかった。このため、彼らはホモサピエンスより大きな脳を持ちながら、子や他人に知識や経験を伝え、世代と集団を越えて伝播させていく、という能力が劣っており、道具や石器の進化の速度もきわめて遅かった。壁画を描く、即ち芸術とも無縁だった。
 氷河期を生き延びるための食料調達能力においても、ホモサピエンスには格段に劣ったであろうし、たぶん頻発した両者の武力衝突は、集団戦闘能力の差から一方的殺戮であったであろう。

 言葉を使わず絵だけで単語の意味を伝えるというゲームがある。形のあるものは簡単であるが、獲物の情報を伝えるに必要な形容詞や地名、時系列の言葉は非常に難しい。直立歩行し、大きな脳を持ち、火と道具を使うヒトまで進化した霊長類が現代人になる最後の関門は、その脳を使いこなす基本OSを書くプログラム言語の獲得であった。

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