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「800字文学館」

お茶の水の夜景

川口 ひろ子

「夜景がきれいなので見に来て下さい」というI氏の誘いを受けて、音楽好きの仲間3人と、お茶の水の高台にある新居を訪ねた。
 七十歳代半ばのI氏は、私たちモーツァルト愛好家仲間の重鎮だ。住まいを兼ねた薬局を息子さんに譲り、御夫婦で近くのマンションの十二階に転居した。大旦那の隠居場と言いたいところであるが、元気なI氏はまだ現役、毎日坂下の店に通勤している。

 部屋に入って驚いたのは、膨大なオーデオ関係のコレクションだ。
 アンプにスピーカー、無数のLPやSPレコード、CD、それに分厚い書籍などが、壁一面を埋め尽くし、リヴィングをはみ出し、食堂にまで進出している。
「これでも、引越しの時に半分は処分した」と言うI氏、お気に入りに囲まれて、趣味三昧、濃厚な毎日を送っているのだろう。音楽はライヴに限ると決めている私には、想像も出来ない世界だ。
 今はほとんど聴かなくなったというLPレコードを聴かせてもらう。曲は勿論モーツァルト。レコード盤の上を針がスイスイと滑って行く感覚は、LPならではの響きだ。CDの硬い音を聴きなれている耳に、滑らかな音色が実に新鮮で、顛面たる情緒が部屋を満たす。今日余り流通しなくなったこの響きに拘り、この流麗さを熱愛するLPファンは多い。「中古市場の獲物も少なくなった」と嘆くことしきりの自称「エルピアン」たち、彼らの心情がよくわかる。

 向かいに建つのは保険会社の高層ビルだ。周囲に緑地を広く取る設計が特徴で、近頃流行の屋上庭園も出来上がり、それを目指して小鳥たちがやって来るという。「春先には鶯の囀りも聞いたわ」と、I夫人は嬉しそうに語る。
 本郷台地の南端に建つ此処からの眺めが晴らしい。
 正面右、皇居の漆黒の森の先にスーと立ち赤い光を発する東京タワー、左に目を移すと、新橋、銀座、日本橋、東京駅、丸の内、秋葉原と、向こうから手前に、透明に輝く光の帯が続く。
 一同、言葉もなく、音楽も忘れ、絶景を眺めて過ごした。

2015年12月10日

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