調子に乗ってはいけないよ

内藤　真理子

　ペルー旅行に行く日、ビール好きの私達夫婦は、搭乗前にビールで乾杯してから飛行機に乗り込んだ。
　映画を二本見て、機内食を何度も食べて、ヒューストンで乗り継いで、リマの空港に着いたのは現地時間の二十二時三十五分。成田から二十三時間もかかっている。やっと着いた、やれやれと思ったら、飛行機が滑走路に着地した途端、陽気な歓声と拍手が起こった。ああ、ここは南米なのだ、とこちらまで陽気な気分になる。
　ホテルは空港の目の前なので徒歩で行く。チェックインして部屋に届いた荷物を確認した時には午前一時をとっくに過ぎていた。すっかりノリノリになった私達は「到着したのだから乾杯しなくちゃ！」と、一階にあるホテルのバーに行ったら閉まる寸前。滑り込みセーフ、でビールをゲット。瓶の栓は手でひねると開くようになっていると、バーテンダーがやって見せてくれた。
　二本のビールを両手に持ち、エレベーターに乗ろうとしたら、バーで飲んでいた男が女性三人を引き連れて先に乗った。現地の人らしく、中肉中背の日本人のような体型だった。続いて乗り込むと、男は、私が両手にビールを持っているのを見て、女性たちに冗談でも言っているのか皆で笑っている。
　私が〝こんにちわ〟というようにビールを持ち上げると大いに受けた。調子に乗ってもう一度。その途端、男は一瞬にして笑顔を消し、凄みのある目で私を睨んだ。
　何があったのだろう、と怪訝な顔をすると、男は自分の腕をグイッと前に突き出した。もう笑っていない男の、仕立ての良い背広の袖に小さな水玉が二三粒。〝アッ！　ビール瓶の周りについている水滴が飛び散ったのだ。どうしよう……クリーニング代を請求されるのかしら〟
　その時、エレベーターが私達の降りる階で止まって、今までのやり取りに全く気付いていなかった夫が呑気な声で「おい、降りるぞ」と言った。私はあわてて男に日本語で「ごめんなさい」と言って降りてしまった。
　旅の神様に、調子に乗ってはいけないよ、と言われた気がした。