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「800字文学館」

九州板付空港

大平 忠

 板付空港は、50年前北九州の黒崎工場に勤務していたので、ときどき利用した。そのため、この空港にはいくつかの思い出がある。当時、夜中の零時頃に出て明け方に羽田に着くという「ムーンライト」なる夜行便があった。プロペラ機の鈍行で、大阪の伊丹経由だった。
 仕事はやたらに忙しく休暇が取れない。婚約期間中、東京へ行くのにこの往復便は重宝した。土日を「ムーンライト」で往復すると職場の仲間にも気づかれなかった。

 ある土曜日の夜、板付から乗ってうとうとしていた。飛行機は伊丹で降り、大阪からの客が隣の席に座った気配がした。突然香水らしき香りが漂ってきて目が醒めた。見事な指輪をはめた白い指が見えた。さりげなく顔を眺めると、なんと女優の淡路恵子ではないか。眠気など吹っ飛んでしまった。そのうち彼女は顔にハンカチをかけて眠ってしまい、私は羽田まで一睡もできなかった。
 東京で、翌年結婚する相手に本件を報告したかどうかは記憶に無い。

 翌年となり、結婚式も明後日となった。このときも「ムーンライト」に乗るべく、板付空港へ向かった。カウンターでチケットを出すと、これは明日の便でこの便ではないと言う。驚いて、何とかしてくれと懇願した。「もし空席がありましたら」ということになったが、まもなく プロペラが廻り始めた。いよいよダメかと思った時、「空席があります」とカウンターから声がかかった。危機一髪だった。

 それから20年後、「ムーンライト」は廃止されていた。東京からの出張で福岡へ行った帰りである。空港で飛行機に乗り込んだ。隣の老婦人が大きな荷物を上げようとしていたので手を貸した。途端に肩がスポンと抜けてしまった。飛行機から降りて日航の職員と一緒に病院に行き治療して貰った。日ならずして、くだんの老婦人から手紙と菓子折りが送られてきた。
 既に三児の母となっている家内であったが、きれいな字の手紙を見て、本当に老年の婦人かと厳しい目をした。

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