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「800字文学館」

私の愛用品

川口 ひろ子

 待ちに待ったオペラ公演の日がやってきた。
 帰宅が深夜になる外出がつらい年齢になり今回は昼間の公演を選んだ。平日にもかかわらず東京文化会館大ホールは大入り満員、杖を持った年配者も多い。上演されたのは、モーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』。揺れ動く4人の若者の心の内を、歌手たちが細やかに歌いあげて、第1幕が終わる。

「赤いオペラグラス、可愛いわね」、隣席の婦人から声をかけられた。この方も杖をお持ちだ。若い頃から劇場通いを続けてきた人のようで、同好の士はすぐに打ちとけて、会話がはずむ。
 レトロなオペラグラスは、岡谷オプティック社製でブランド名は「Vista」。幅9㎝・高さ5㎝程、ボデイの部分にくすんだ赤色の革が張られている。この赤が気にいって、当時住んでいた町の眼鏡屋さんで買った。昔からの商店街の中ほど、磨きあげられたガラス戸や古くさいショウケースなども思い出されて懐かしい。東京オリンピックの頃だろうか、けっして高級品ではないが、勤め人駆け出しの身にしてはかなり思いきった贅沢な買い物であった。金属の部分は綺麗に光っているのに、革の部分は傷だらけだ。オペラという深い森を彷徨っているうちについた傷、夢の足跡にも見えて来る。

 思えば、何回かの引越しで多くの物を捨てた。愛用品など持たない、身辺をきれいに整理して、何も残さずお墓に入るのだ! と力んでいた私であるが、近頃この決心も緩んできた。
 50年もの間私の元を離れない愛用の品、姿は旧式、性能もイマイチであるがまだ現役、捨てるなどもってのほかだ。私の暮らしを豊かに彩ってくれる優れもの、今後も大いに利用してやろう。

 偽りの恋の顛末は? 6人の歌声とオーケストラの響きが絶妙に絡み合いながら極上のモーツァルトを奏でて幕が下りる。
 喝采は鳴り止まず、カーテンコールは続く。
 最高の舞台を演じ終えた出演者たちの、満面に笑みをたたえた姿が、レンズの中で輝いていた。

2016年1月13日

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