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「800字文学館」

騎馬民族王朝説のロマン

首藤 静夫

 前回紹介した、歴史家・小林惠子(やすこ)氏の『海を渡ってきた古代倭王』(祥伝社)は壮大な歴史ロマンである。
 紀元前から聖徳太子まで、わが国の史料が乏しい中、アジアの文献史料に広くあたり、騎馬民族王朝説の立場から氏独自の考えを提唱している。その一部を紹介する。

  1. 邪馬台国は本拠地の奄美大島から北上し、北九州・伊都国を支配した。
  2. 神武天皇に投影された者は二人。脱解王と東川王と称し、いずれも倭を席巻した高句麗王である。特に東川王は、天孫ニニギの子孫と思われる。
  3. その後、騎馬民族が次々と倭に侵入し、交互に支配した。
    匈奴の分派が西日本に侵攻、崇神朝に投影。
    鮮卑が百年間倭国を支配。日本武尊はその王族で倭を制圧後母国に帰還。
    氐(てい)族が北九州から畿内に東征。応神朝に投影。
  4. 応神が高句麗の好太王を攻めたが敗死。逆に、好太王が倭に進出して仁徳天皇になった。
  5. 欽明天皇は百済・聖明王が本務で、倭国は蘇我稲目に統治を任せた。
  6. 日本書紀は万世一系にすべく、一部を神話化して上手につなぎ合わせた。

 狐につままれたようなこの話、氏はアジア史料から相互の関連や記事の矛盾を検証する中でこの主張にたどりついたという。
 この時期は漢、魏・呉・蜀の三国、五胡十六国の混乱期である。さまざまな民族が大陸や半島を行きかったことだろう。倭との接触も想像以上に頻繁で広範囲だったかも知れない。

 騎馬民族は朝鮮半島南部まで支配した痕跡がある。現に百済、高句麗の祖先は満州にいた扶余族といわれる。倭国だけ手つかずだったとは思えない。馬を伴って海をどのように渡ったか、疑問も残っているが。

 人口が希薄で産業も軍事力も脆弱だった倭に侵攻し、支配することは氏の主張のとおり割合容易だったのではないか、キューバのカストロ部隊のように。
 民族の区別さえ不透明なこの時代は、倭国にも諸族が入り乱れたに違いない。わが国だけ万世一系と力んでも仕方のないことではないだろうか。

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