江戸三山縦走記(谷中編)
鶯谷駅前に「御手打御免天下公望山荘」と看板を掲げた古風な蕎麦屋がある。引き戸に今月末で閉店との張り紙。また江戸の名残が一つ消える。惜しいものだと暖簾をくぐり、玉子丼とせいろのセット(九百円) の繊細な味に舌鼓を打つ。
昼の腹拵えも整い、寛永寺中堂前の上野桜木町より出発。この町名は土地柄通りだが、続く町の「谷中」には首を傾げる。町域全体が台地で谷など見当たらない。
台地西側の緩傾斜面に数十の寺院が建ち並ぶ。その一つ山岡鉄舟が開いた全生庵を訪れる。彼に師事した三遊亭円朝の墓もある。つぎに台地東側の大半を占める谷中霊園に入る。神仏分離政策で墓を失った神道信者に配慮して、明治期に出来た公営墓地である。
まずは徳川慶喜公の墓へ。毀誉褒貶相半ばする人物だが、私は明治維新の最大功労者と尊敬する。鳥羽伏見の戦いの際、彼単独の判断と行動力で大阪から江戸へ逃げ帰らなければ、事態は泥沼化していた筈である。葵紋がついた柵の外から慶喜夫妻各々の大きな円墳を拝む。奥には小さな円墳も見えるが、側室方の墓だろう。死しても妻妾同居とはさすがに大らかだ。
墓地内の大通り「さくら通り」を進むと、花が供えられた高橋お伝の墓を見掛る。日本で最後の斬首刑に処せられた「明治の毒婦」である。歌舞伎や浪曲で格好の題材にされてはいるが、殺人鬼さえも死ねば区別なく厚く弔う日本人の死生観は素晴らしい。憎い敵はその墓まで掘り返し復讐するという国が有るなかで特異である。
天王寺の五重塔跡に来る。富くじで賑った様子を広重は浮世絵に残している。近くに住んでいた幸田露伴はこの塔の建設時の逸話を名作「五重塔」に書いた。昭和三十二年に心中事件で焼失するが、その十年前に彼は亡くなった。もし生存中であれば三島由紀夫の「金閣寺」のような作品を残したかも知れない。
初冬の日暮れは早い。霊園から御殿坂へ急な石段を下りる頃には薄暗くなってきた。此処はまさに日暮里である。