江戸三山縦走記(道灌山編)
日暮里駅前から御殿坂を上り始めると、右手に本行寺がある。小林一茶などの文人墨客に親しまれた「月見寺」である。山頭火の「ほっと月がある 東京に来てゐる」の句碑が立つ。だが今では近くの超高層ビルに遮られ、月影も届かないだろう。御殿坂と諏訪通りの四つ角にある経王寺の前まで上りつめる。彰義隊の敗走兵を官軍が銃で撃った弾痕が山門に残っている。
諏訪通りは狭い尾根を南北に走る一本道である。道沿いに寺社が続く。養福寺の境内には談林派俳人の句碑や戦災を免れた仁王門がある。その西側の急坂は富士見坂、今でもビルの横に富士山を望めるという。
近村の総鎮守であった諏訪神社につき当る。参拝した後、境内の説明板を読む。本殿が鎮座する箇所が標高二十九メートルの江戸三山の最高地点である。太田道灌がこの地に出城を築いたことから、「道灌山」と呼ばれる。
武蔵野段丘の東端に位置し、縄文海進期には奥東京湾に面し、貝塚も発掘された。江戸期には寺院や大名抱屋敷で占められるが、景勝地として一般にも開放されたので、台地全体が一大庭園の様相を呈し、月見、雪見、花見や虫聴き、薬草摘みの名所となる。筑波山、日光連山、富士を見渡せ、訪れた人々は日暮れまで時を忘れたという。
十返舎一九も狂歌に詠う。
桃さくら鯛より酒の肴には見ること多き日暮しの里
付近を描いた錦絵を眺めて往時を偲び、逍遥していると、切通しの崖の上に出た。真下は車通りの激しい道灌山通り。目を正面に向けると、断面も露わな細い尾根の上から民家がはみ出しそうである。
切通しを横切り、尾根道に戻る。突然東側がパッと開け、眺望が利くプロムナードとなる。風切音を響かせた流線型の新幹線が足元を疾走し、スカイタワーが空に聳えている。
日暮しの里で花や月を愛で、松虫の声に興じ、詩歌を吟じていた江戸期の人たちがこの光景を見たらどう思うであろうか。驚嘆か、憐憫か。疑問を抱きながら田端方面へ歩を進めていく。