タイトルの効用
文章の題を何というか、表題、題目、標題と内容によって使い分けてきたとは思うが、最近ではタイトルとも言うようだ。英語のタイトルには別の意味があっても何たるかを表すものであることは確かだ。付け方が肝要なことはペンクラブ著作へのヒット数からも実証されている。嘗て、縁談用に釣書なる言葉が使われていたが、これは結婚相手を釣りあげるものかと思ったものだ。
最近、本のタイトルで将にこれだなと思われる体験をした。
一つは、村上春樹著「ラオスにいったい何があると言うんですか」が表題の単行本だった。自宅までのバスの乗り継ぎ駅にある本屋に平積されていた。
「ラオス」とあり、「そこに何があるって言うのよ」とまで言われては無視できない。そこに四年も居たのだし、「航空券貰っても行きたくない処ね」と隣の奥さんに言われた国でもあるからだ。バスの時間が迫っていたので値段も見ずにさっと掴んでレジからバスへ。席について開いてみれば、十編の紀行文集だった。アメリカ四編、北欧二編、地中海二編、日本一編、そしてラオスである。ラオスは章でも頁でも十分の一。しかも章題は「大いなるメコン川の畔で」とだけ。表紙の題は何処にもないのだ。
他の一つは「男の死に支度」なる本である。エッセイコラムの題に見つけた。
「男のと」断っているからには骨太のハードボイルドを、軽妙酒脱に書いたものかと期待しアマゾンで探した。幸い廉価な中古本が見つかり、あっと言う間に届いた。梱包を開けると白地に黒文字、黒地に白文字だけの表紙は葬儀案内のようだった。かなり洒落が効いているなと思い読みだせば、中身は極めて真面目な終活教科書である。またやられた。ならばと、試しに八百字文学館の入選作を読んでみた。十編でも八千字で楽だ。入選作中、タイトルと内容が我が事前予測と合致したものはたった三編。
自分の想像力の貧困さを恨むべきか、作者の意外性狙いの作戦勝ちなのかと、悩み深しだ。