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「800字文学館」

お姫様先生

平尾 富男

 初めて読んだHemingwayは、中学2年生の時だった。津田塾大学出身の若い英語の先生が、「夏休にでも読んでごらんなさい」と言って1冊の本、‟The Old Man And The Sea‟をくれた。1年前に「ジス・イズ・ア・ペン」で初めて英語に接したばかりの生徒にはとても荷が重い。それでも、憧れ以上の感情を抱いてしまったやんちゃ坊主はそのタスクに挑んだ。
 小柄で少し太り気味だったが上品で魅力的なその先生が、男子ばかりの中高一貫ミッションスクールに英語教師として入ってきたときには、学校中が大騒ぎになった。色白の福々しい顔に真っ赤な口紅がよく目立ち、その甘い香りは青春に目覚めたばかりの中学生たちには刺激が少々強過ぎたのだ。
 当時の学年主任は、50歳を超えた数学担当の女の先生で、生徒が付けたあだ名は「お婆ちゃん」だったから対照的な存在となった。
 先生のお弁当を時々ベンツに乗った運転手が学校まで運んでくるのを知って、「先生はお姫様なんだ」とみんなが言いだした。それを伝え聞いた先生は自ら生徒たちに語った。
「そんなんじゃないけど、先生の母方の曽祖父は、総理大臣在任中に暴漢に襲われて亡くなったのよ。先生が生まれる前だったけどね」
 2年ほど勤めた学校を突然辞めることになった先生が、先生のお陰で英語だけは成績が良くなっていたやんちゃ坊主と、牧師の息子で級長を務めていた同級生の2人を、お宅に呼んでくれた。お姫様の家に行けるというので2人は飛び上がって喜んだが、他のクラスメートには何も言えない。
 中野区の閑静な住宅街にあるお屋敷の門を入って先生の部屋に上げてもらう。先生と同じ年恰好のメードさんがケーキと紅茶を運んできてくれたが、味は覚えていない。本棚には英語の本がたくさん並んでいたのが印象的だった。
 本棚から取り出して渡してくれた1冊、*‟Wuthering Heights‟が先生の形見となった。お見合いをして翌年結婚を期に神戸に住むと知らされたのだ。お目出度い話だったが、その後先生とは疎遠になってしまった。
(*‟Wuthering Heights‟;Emily Bronte原作、邦題は『嵐が丘』)

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